<コラム 筆洗>内灘闘争とは古都・金沢近くの内灘村を舞台とする反基地闘争。… - 東京新聞(2024年2月2日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/306829

内灘闘争とは古都・金沢近くの内灘村を舞台とする反基地闘争。朝鮮戦争中の1952年、海沿いの村の砂丘在日米軍の砲弾試射場の用地に選ばれ、住民が反対運動を始めた。
座り込みには乳飲み子を抱えた女性らも加わった。政党、労働組合、知識人、学生たちも全国から応援に来た。作家として名をなす前の早大生、五木寛之さんも現場を見た一人で後に小説『内灘夫人』を書く。
やがて地元に容認派が生まれて意見は割れ、村は試射場使用を認め、米軍は数年間居座った。内灘は戦後の反基地闘争の先駆けとして称(たた)えられ、そして煩悶(はんもん)した。
新たな難局である。能登半島地震震源から約100キロ離れた内灘町震度5弱だったが、液状化で住宅が壊れ、電柱が傾き、道路が波打った。砂丘の町のせいか、地中から砂が噴き出す現象もあった。
金沢の通勤圏として発展した町の被災住宅は千棟以上とも。地震発生から1カ月が過ぎたが、600超の世帯で断水が続く。「自宅は畳がめくれあがり、床が隆起した。もう住めない」という嘆きも伝えられた。苦悩に胸が痛む。
内灘闘争のスローガンは<金は一年 土地は万年>だった。補償金など目先の金はすぐ消えるが、土地は永久で何より大切だという意味らしい。永久と思えた土地が歪(ゆが)んだ時はどう立ち直ればいいのか。支える側も含めた闘いは時間を要するかもしれない。