(2018墓碑銘)戦後体験の意味を問う - 沖縄タイムス(2018年12月31日)

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戦後沖縄のさまざまな苦難に向き合い、それぞれの場で大きな仕事を成し遂げた先輩たちが、この1年の間に幾人も、あの世に旅立った。
上原当美子さん(享年90、以下敬称略)は、沖縄師範学校女子部の3年生だった17歳の時、ひめゆり学徒隊の一員として戦場に動員された。
真っ暗な壕の中での、傷病兵の看護。患部はうじがわき、臭気が鼻をつく。負傷兵のうめき声は昼夜たえることがなかった。
1945年6月17日、伊原の第一外科壕で至近弾がさく裂し、目の前で多くの学友を失った。戦後、ひめゆり平和祈念資料館の設立に関わり、語り部として活動した。
大宜味村喜如嘉で生まれた福地曠昭(87)は、国民学校高等科卒業の年に沖縄戦に巻き込まれた。
「3カ月の間、山奥に閉じ込められた。雨期のためか、ノミとシラミが異常発生していた」
福地の戦後体験は波瀾(はらん)万丈である。本土渡航のためのパスポート交付を拒否され、CIC(米軍防諜(ぼうちょう)部隊)による不当な尋問を受けた。右翼活動家に襲撃され、太ももに重傷を負ったこともある。
福地は祖国復帰協議会、沖縄人権協会、革新共闘会議など、さまざまな団体の要職につき大衆運動をけん引、10年続いた復帰前後の革新県政を支えた。
釣りと酒が好きで、酔うと決まって沖縄の歌が飛び出した。庶民性と飾らない人柄は保守革新を超えて多くの人びとから愛された。生涯の著書は40冊を超える。

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沖縄大学元学長の新崎盛暉(82)は、沖縄出身の両親のもと、東京で生まれた。

対日講和条約が発効した52年4月28日、通っていた都立小山台高校の校長が全校の生徒教職員を集め、「今日、めでたく日本は独立しました。万歳を三唱しましょう」と呼び掛けた。
新崎のこの時の「衝撃」は、後々までついて回り、晩年の「日本にとって沖縄とは何か」(岩波新書)という根源的な問いに行き着く。新崎はこの中で「構造的沖縄差別」という言葉を「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」と定義づけている。
研究家でありながら、同時に市民運動に「伴走」し続けた生涯だった。
知事の翁長雄志(67)は、膵臓(すいぞう)がんと闘いながら最後まで新基地建設反対の姿勢を貫き、8月8日、息絶えた。

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壮絶な最期だった。
2016年に刊行した「闘う民意」(角川書店)の中で翁長は、沖縄だけで日米両政府の強大な権力に立ち向かうことはできないとしつつ、こう指摘している。
「勝てそうにないからといって、相手の理不尽な要求に膝を屈し、そのまま受け入れるのでしょうか」「これは人間の誇りと尊厳を賭けた闘いでもあるのです」
翁長の魂の叫びが各国の言語に翻訳され、世界の人びとに読み継がれ、辺野古問題を巡る沖縄の現実が広く共有されることを期待したい。