<安倍政権に注文する>「原発ゼロ」への転換を - 東京新聞(2018年9月24日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018092402000149.html
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原発、エネルギー問題は、総裁選の争点にされなかったと言っていい。
告示前日、地震による停電で全北海道が闇に包まれ、北海道電力泊原発の外部電源が一時途絶えた。一極集中電源の危うさや、3・11を経てなお脆弱(ぜいじゃく)な原発の防災体制が露呈して、国民の不安と関心は一層高まったというのにだ。
原発の“持続可能性”は、おのずと怪しくなりつつある。
膨大な「国費」を投じた高速増殖原型炉「もんじゅ」が廃止に追い込まれ、使用済み核燃料サイクル計画は、事実上破綻した。核のごみの処分場は、一向に決まらない。二〇三〇年代には一時保管の施設から放射性廃棄物があふれ出すという。国際社会は、核兵器のエネルギー源にもできる大量の余剰プルトニウムの処分を迫る。膨らむ維持費や廃炉費用に耐えかねて、電力会社と原子炉メーカーは提携に動き始めている。
極め付きは、事故に備えた賠償金の上限引き上げを、政府が断念したことだ。
原子力損害賠償法は、電力会社の賠償責任に上限なしと定める一方で、原発一カ所に付き千二百億円を用意するよう電力会社に義務付けている。
福島の賠償費用はすでに八兆円を超えている。少しばかり積み増したところで焼け石に水ではあるものの、上限引き上げを断念するということは、原発は民間企業の手に負えないと、国が正式に認めたというに等しくないか。
福島の賠償費用は不足分を国が立て替え、一部はすでに電気料金に転嫁されている。いずれにしても、ツケは国民に回される。
もはや原発は、国家の意思と力がなければ、管理も廃棄もできない状態に陥っている。なのに、国民の多くが抱く不安や疑問に国は答えてこなかった。
世界が再生エネルギーへのシフトを進め、国民の過半が原発再稼働に反対する中で、なぜ原発を主力電源と位置付けたままなのか。核燃料サイクルをなぜ断念できないか。福島のような事故が再び起きたとき、誰が、どのように責任をとってくれるのか。そもそも責任がとれるのか−。恐らく答えられないのだろう。
原発事故の責任は、政府にも負いきれるものではない。福島の現状を見れば明らかだ。だとすれば「原発ゼロ」への転換を「国策」として明確に示すべきなのだ。