包容社会 分断を超えて(特別編) 言葉が差別気づかせる - 東京新聞(2017年4月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201704/CK2017040702000134.html
http://megalodon.jp/2017-0407-0936-52/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201704/CK2017040702000134.html

◇法政大総長・田中優子さん
今年の三月十一日、私は大学のウェブサイトに、「東日本大震災から六年目を迎えて」と題したメッセージを載せた。その原稿を書いているときのことだ。私は学生の中にも、六年前の体験から直接間接に影響を受けている者がいるに違いないと思い、「そのことも気にかかっています」と書いた。いつも私は公にする原稿を書くと、総長室長に見せて直すべきところがないか確認してもらう。このときもそうした。
本学では、総長が教員を総長室長に指名している。総長を助けて理事たちの間をつなぎ、まとまりある理事会運営を維持するためである。私が指名した総長室長は教育学の教授であった。
彼女は「災害そのものの問題性とともに、時間がたつ中で災害後のプロセスの問題性が浮かび上がってきている。痛んでいる人を、さらに痛めるのはなぜか? エネルギーという大きなシステムの問題に加えて、脅かされた人権が今どうなっているかという視点があると、より良いかもしれない」とコメントしてくれた。そのとき初めて、自分が「気にかかっている」といささかぼんやりと書いたことの内実が、水底から水面にはっきり浮上してきたのである。そして以下を付け加えた。
「災害後に、誤った認識や被災への無知、そこから生じるねたみなどによって、とりわけ子供たちの人権が脅かされ続けています。その子供たちが今もこれからも、本学の学生になるかも知れません。同じような差別偏見にさらされた時には、大学に相談し問題を共有させてください。本学はそのような差別偏見、人権侵害を決して許しません」

▽視野を手渡す
大事なことが表明されるには、書き手や講演者や報道関係者や政治家だけが役割を果たすのではなく、それに気づかせる人の存在が欠かせない。とりわけ人権侵害の当事者や、当事者の声に耳を傾けようとする人の存在が、現代のような排除の時代には不可欠なのだ。
彼女はあるとき「私はほんとうは大学生より、大学にも来られない子供たちの方が気になっている」と言った。総長である私は学生のことで手いっぱい。しかしこの一言で私は、自分に見えていなかった人々のことが視野に入った。
言葉は他者に何を伝えるのか? 言葉には、自分の視野を他の人に手渡す働きがある。ジャーナリストも文学者も物書きや講演者も、そして同僚や友人に相対するときも、言葉をそういうものとして認識したほうがよいだろう。コミュニケーションとは、気に入ってもらったり、なれ合ったりするためだけでなく、他者が見えていないものを手渡すためにもある。原発事故に起因するいじめや排除・差別を経験している人々、それを知っている人々は、やはりそのことを言葉に出して語るべきだろう。

▽被害に寄り添う
排除に関してもうひとつ大事な視点がある。命に目的はない、という視点だ。
大学は、頑張って能力を出し切ること、成績を上げる努力をすることを学生に期待する。次々と成果を上げる教職員もありがたい存在だ。しかし、組織や社会の役に立つことを目的に生きる価値だけでなく、生きることそれ自体の大切さも、教育の世界は伝えていかねばならない。相模原の障がい者施設が襲われた事件を、教師はどう語ることができるか? パラリンピックは、出場できる選手や勝利する選手だけに注目してよいのか?
被害者に寄り添い続ける作家の石牟礼道子は「苦海浄土」のなかで、バスを待つ胎児性水俣病の子供たちのそばを通る人々を、「いくらか身を引く気配で」「言葉少なに声をかけてとおり」と表現した。それは「やさしさともみえたが、そうでないときもあるのだった」という。実際に深刻な差別があり、患者を出した家に入ろうとしない人々もいた。
水俣病原発事故も文明の災害であり、加害者が明確であるはずなのに被害者は十分な補償を受けられず、さまざまな差別にさらされている。まずその事実を知ることが必要で、そのためには、それを伝え、それが間違っていること、憎悪表現や暴言が悪であることを語る、たくさんの人々の言葉が必要なのである。