足尾鉱毒事件 地元の農民運動を風化させぬ 41年前のドキュメンタリー映画上映:群馬 - 東京新聞(2017年1月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201701/CK2017012502000178.html
http://megalodon.jp/2017-0125-1023-55/www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201701/CK2017012502000178.html

日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件。その歴史や現在の太田市毛里田地区の被害農民が国の公害調停で原因企業の責任を初めて認めさせた運動などを描いたドキュメンタリー映画鉱毒」(1976年)の上映会が29日に毛里田行政センター(同市矢田堀町)で開かれる。運動のリーダーとして鉱毒根絶に半生をささげた故板橋明治さんが環境を守ることの大切さを映像で伝え残そうと製作に心血を注いだ作品だ。(粕川康弘、竹島勇)
板橋さんは地区の水田に被害が出た五八年に結成された毛里田村鉱毒根絶期成同盟会(現渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会)の副会長に。六二年に四十一歳で会長に就任すると二〇一四年に九十三歳で亡くなるまで務めた鉱毒根絶運動の象徴的な人物だ。
上映会は期成同盟会が主催。板橋さんの長男で現会長の明さん(66)は「毛里田で鉱毒被害があったことを風化させたくない。地域の歴史を知り、環境保全に関心を持ってもらうため毛里田で開催することに意味がある」と思いを語る。記録で確認できる限りでは全編九十分のフィルム上映会は八八年以来という。
映画は明治時代から太平洋戦争、映画製作当時の足尾銅山の様子や鉱毒被害の歴史を映像のほか写真や絵などで伝える。明治天皇への直訴など田中正造も描かれている。また戦後、毛里田地区での銅やカドミウム汚染を受け、対応を話し合う農民の様子、被害を受けた稲の状態や畑に石灰をまく農作業の様子など幅広く記録。かつての自然を取り戻す希望や将来に向け環境保護の大切さも訴えている。ナレーションは俳優の故三国連太郎さん。
七四年に板橋さんが対応に没頭した国の公害等調整委員会で加害企業が責任を認める画期的な和解調停が成立。映画では板橋さんが構成に携わったためか本人の登場は多くはないが、調停成立の意義を語っている場面がある。またある老人が「板橋会長の熱意にうたれて農民がまとまった」と感慨深げに運動を振り返るシーンは印象的だ。
板橋さんは被害農民のため昼夜を分かたず働いていたという。特に調停成立までの二年間は何度も東京に出向き、夜は自宅で鉱毒関係の本や六法全書などで遅くまで勉強していた。
文書整理など板橋さんの活動を支えてきた妻の茂子さん(89)は取材に「夫はいつも『時間がない、時間がない』と言っていた。『みんなのために先頭に立つのだ』と話していました」と振り返る。映画製作も他人任せにせず、茂子さんのもとには板橋さん手書きの構成案が残されている。
明さんは「父は正義漢でこうと思ったら貫く人。記念碑や文字だけでなく、映像でも記録を残しておくことが大切だと考えたのでしょう」と話す。
映画「鉱毒」にエンドマークは無い。「鉱毒問題は終わっていない」という板橋さんの持論を示しているようでもある。上映会は午前十時からで無料。問い合わせは期成同盟会=電0276(37)1202=へ。

太田市毛里田地区の戦後の鉱毒根絶運動> 1958年の足尾銅山源五郎沢堆積場決壊による土壌汚染と71年に地区産玄米からのカドミウム検出で運動が強まる。板橋明治さんを筆頭代理人に971人が72年に国の中央公害審査委員会(後の公害等調整委員会)に対し、古河鉱業(現古河機械金属)に農作物被害の損害賠償を求める調停を申請。74年に調停は成立。足尾鉱毒事件で初めて原因企業が責任を認めた。

<運動の資料> 板橋さんは鉱毒事件と根絶運動を後世に伝えることを重要視した。77年に「祈念鉱毒根絶の碑」を建立。碑には板橋さんが「苦悩継(つた)ふまじ されど史実は伝ふべし 受難百年また還らず 根絶の日ぞ何時」と揮毫(きごう)。詳細な資料をまとめた上下巻3000ページを超す「鉱毒史」を出版。下巻は死去1年前の2013年に発行した。
太田市は15年5月に市学習文化センター内に足尾鉱毒展示資料室を開設。火、木、土、日曜には期成同盟会員らがボランティアガイドを務める。ガイドがいる日は映画「鉱毒」のダイジェスト版を見ることができる。