名張毒ぶどう酒事件 奥西元死刑囚の手記発見 苦難と執念刻む - 東京新聞(2016年10月4日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201610/CK2016100402000157.html
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三重県名張市で一九六一年、女性五人が毒殺された名張毒ぶどう酒事件で死刑が確定し、再審請求中だった奥西勝元死刑囚が八十九歳で亡くなってから、四日で丸一年がたつ。特別面会人だった稲生(いのう)昌三さん(77)=愛知県半田市=が保管する元死刑囚の遺品から、獄中で書いていた手記が見つかった。
手記は大学ノートや小型の手帳に残されていた。記載によれば、一九六三〜二〇〇八年ごろ断続的に書かれたとみられる。
記載の多くは日記の体裁で、冤罪(えんざい)の訴えや獄中の孤独、家族への思いが簡潔な文章でつづられている。「全生命をかけて頑張ったが、運悪く最低の結果となる。本当涙も出ない」(最高裁で死刑が確定した一九七二年六月十五日の記載から)
名古屋高裁が再審開始を決定した二〇〇五年四月五日には「とうとう悲願」との言葉とともに、支援者らとの面会の様子が書き記されている。だが、検察の異議申し立てに「残念である。又(また)いじめ。もういいかげんしてくれよ」。乱れた筆致で感情を爆発させた。決定はその後、取り消された。
手記は遺族の意向を受け、稲生さんが保管。元死刑囚の死後に収監先だった東京・八王子医療刑務所から受け取った私物や差し入れ品の中に含まれていた。
稲生さんは「死への恐怖と闘いながら、最期まで希望を持ち続けた奥西さんの思いが率直につづられ、感慨深い」と話している。
事件を巡っては、元死刑囚の妹の岡美代子さん(86)=奈良県山添村=が引き継ぎ、十回目の再審請求中。
ノート八冊に及ぶ奥西元死刑囚の直筆からは、潔白を訴える執念や家族への思いなどが生々しく伝わる。 (小笠原寛明、杉藤貴浩、天田優里)
◆1969年9月 高裁が死刑判決
一九七〇年七月十五日、奥西元死刑囚は名古屋拘置所で味わう激しい孤独感を書き記している。
前年九月、名古屋高裁が下した判決は一審の無罪を覆す死刑。事件直後の逮捕以来、再び捕らわれの身となった苦しみを「房の中は風は一つも通らない。鉄窓一枚、外と中は大きく違ふ」と嘆いた。「これが地獄というものか。心行くまで美しい風を体一ぱい受けたい」
だが、これは長い戦いの入り口に過ぎなかった。
◆72年6月 死刑が確定
逆転死刑が言い渡された名古屋高裁判決から三年後の一九七二年六月十五日、最高裁は奥西元死刑囚の上告を棄却し、死刑が確定した。
「本当涙も出ない。無実の罪とは本当にあるのだ」。この日の手記は普段と変わらぬ端正な筆致だが、深い絶望を隠せない。
七月八日には「一そうの事真犯人であったほうが気が楽になり、つぐないの心境に立ちかへり、(中略)楽になれるのぢゃないかと思ふ」と記している。
徐々に気持ちが落ち着いてくるのは一カ月が過ぎ、同月十九日に拘置所の集会に参加したころ。「久しぶりに涼風を体一杯受ける」と気分転換したことをうかがわせ、「他人は誰一人として信じてくれないだろう。俺の真実を己一人で信じるのみ」と、引き続き無実を訴える意を強くしている。


◆84年7月 松山事件再審無罪
奥西元死刑囚は、冤罪(えんざい)を訴える他の重大事件にも強い関心を持っていた。
宮城県で一家四人が殺害された「松山事件」で、仙台地裁が再審無罪判決を出した一九八四年七月十一日。「再審のみち大きく開いてくれた。新聞でも母子との抱き合っている写真をみて自分の事のように感激してしばらく見続ける」と思いをはせた。
八〇年十二月二十二日には「九州免田事件再審確定(最高裁)又12/13四国の徳島事件再審開始発表と相次いでよい事知り人の事で己の事のように嬉しい」と記述がある。
元死刑囚は同じ頃、こう期待を寄せていた。「先ぱい達が真実の道を開いてくれる事が己の真実の道に通じるのだ」
◆88年11月 最愛の家族の死
「母の骨までしゃぶって、母の一生は私の苦労であった。おわびして成仏を祈る」
一九八八年十一月四日、母タツノさんが亡くなった。事件後は地元を追われ、一人暮らしをしながら、内職で稼いだ金を手に毎月のように面会へ訪れた。最愛の母の死を電報で知った奥西元死刑囚は、ざんげの言葉を書き殴った。
二〇〇三年ごろにも「母の日の想記」と題し、思いをしたためている。「子どもの頃、母からの受けた恩をゴクあたりまえだと想っていて感謝の心もなかったように思う。だがえん罪以来獄舎に入れられて手紙をもらうようになって、それまで母から手紙や一筆はもらったことがなかったが(中略)合計約1千通になっていた。一週間一通必ずくれ私も返事した」
◆88年12月 第5次請求棄却
棄却まで十一年もの月日を費やした第五次再審請求。奥西元死刑囚は裁判所や検察の動きを、弁護団から聞かされていた。
一九八五年三〜七月には、経過が書き連ねてある。「裁判は裁判長さんが当方(私)主張を大分認めてくださって大進行であったとの事」。これまでにない手応えを感じていたようだった。
だが八八年十二月十四日、請求は棄却される。翌十五日の手記には「再審請求却下される。バカヤロー」「何を信じてよいかわからない。家族の者、亡き母も残念がっていると思う」。一度は絶望したが、「先生方が異議申し立てをしてくださるので、それにかけることにする」と、無罪を勝ち取る日まで歩み続ける決意をする。


◆94年1月 支援者の訃報相次ぐ
「散る桜 残る桜も 散る桜」。一九九四年一月二十八日、奥西元死刑囚は江戸時代の歌人良寛の作といわれる句を書き記している。この頃、再審請求を二十年にわたって支えた吉田清弁護団長や親族らの訃報が相次いでいた。「誰もが等しく死ぬ運命にある」といった意味を、自身に重ねるように名句を引いている。
手記からは、拘置所で閲覧できる新聞などを通じ文化や世相の関心を失わなかった姿がうかがわれる。
「映画鑑賞『男はつらいよ』。寅さんが妹のサクラのお世話になっている。今の自分と一緒で感動した」(七七年九月)
◆2003年1月 刑務所で手術
二〇〇三年一月、大阪医療刑務所胃がんの手術を受け、胃の三分の二を切除した。術後、「手術成功で胃残るは1/3となりマスイがさめたら集中室であった。看護婦さん付いてくれて。いい結果との事」と書き記している。
エアコン付きの大部屋に移動した際には暖が取れる環境を喜ぶ一方、「八日目はこの暖かい室を出なければならん。宿命。元の寒い室にもどり」と、拘置所に戻るつらさをにじませる文章も。
家族が面会に訪れた日には、「ハナと横腹にチューブ差し入れてある。悲惨な姿。でも面会してくれて嬉しくて涙が出た」と、ほっとした心中を記した。
◆05年4月 再審請求認められる
二〇〇五年四月五日、第七次再審請求審で名古屋高裁が再審開始決定を出した。手記には喜びをかみしめるように、丁寧な文字でこう記されている。「とうとう悲願再審開始決定ある」
すぐ担当弁護士が面会。「感動。嬉しくて涙の面会であった。待ち待ち苦しみ6回の却下、7回目である」
だが、再審の扉は重かった。検察が異議を申し立てた。「残念である。又いじめ。もういいかげんしてくれよ」
〇六年十二月、高裁の異議審で再審開始決定が取り消された。手記に記述がないが、面会した支援者や弁護士に「残念。命の限り無実を訴え続ける」と涙を浮かべて話したという。
その後、最高裁は高裁に審理を差し戻したが、一二年五月、再び高裁は請求を棄却した。その二日後、奥西元死刑囚は肺炎で体調を崩して入院。翌月には八王子医療刑務所(東京)に移送され、以後、名古屋拘置所に戻ることはなかった。一五年十月四日、八十九歳でこの世を去った。
<お断り> 手記の引用文、誤字や脱字などは一部修正しました。
名張毒ぶどう酒事件> 1961年3月28日夜、三重県名張市葛尾の公民館で開かれた地元の生活改善グループの懇親会で、白ぶどう酒を飲んだ女性17人が中毒症状を訴え、うち5人が死亡した。奥西勝・元死刑囚は「妻、愛人との三角関係を清算するため、農薬ニッカリンTを酒に入れた」と自白して殺人容疑などで逮捕されたが、否認に転じた。64年の一審津地裁は無罪判決だったが、69年の二審名古屋高裁は逆転死刑判決で72年に確定。第7次再審請求で同高裁は2005年に再審開始を決定したが、その後覆され、最高裁は13年に再審を認めない決定をした。奥西元死刑囚は第9次再審請求中の15年10月4日、肺炎のため収監中の東京・八王子医療刑務所で死亡した。再審請求は妹の岡美代子さんが引き継いだ。