岐路に立つ象徴天皇制(白井聡さん) - Y!ニュース(2016年9月7日)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shiraisatoshi/20160907-00061920/
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しかし、われわれは常識のなかに胡坐をかいて思考停止に陥っていたのかもしれない。いつものように、今上天皇の言葉は穏やかであった。にもかかわらず、「象徴とは何か」を語るその姿に、私は一種の烈しさを感じ取った。皇太子時代から長年考え続けた「象徴としての役割を果たす」こととは、ただ単に天皇が生きていればよいというものではなく、また摂政が代行しうるものでもない。文字通り「全身全霊をもって」国民の平安を祈り、また傷ついた人々や社会的弱者を励ますために東奔西走しなければならない職務である、という御自身の考えがはっきりと打ち出されたのである。

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天皇制の存続と戦力の否定を規定する戦後憲法が米国の構想した対日政策においてワンセットであったことは数々の歴史研究が示しているが、象徴天皇制もまた、戦争が終結するはるか前に米政府内で構想されたものだった。E.ライシャワーが「(日本人に対し)大変な権威を持つ傀儡」として天皇を戦後日本の復興と西側陣営への組み入れに役立つものと名指したのは1942年9月のことであり、実際にこうした指針に沿って戦後日本の設計はなされてゆく。マッカーサーが強く自覚していたように、戦後日本の民主化とは、天皇制という器から軍国主義を抜き去り、それに代えて「平和と民主主義」という中身を注入することであった。対米従属構造の下に天皇の権威があり、さらにその下で営まれるものとして戦後民主主義は規定されていた。してみれば、象徴天皇制とは、大枠としての対米従属構造の一部を成すものである。

戦後70年余という月日は、この構造を表面化させると同時に、その変質を露にさせた。それは、天皇制を存続させたアメリカの真意(善意でもなければ敬意でもなかった)が明らかになってくるとともに、冷戦終焉後の世界で、かかる構造が日本の国家指針であることの合理性が失われた(拙著『永続敗戦論』を参照)ことによってである。にもかかわらずこの構造を護持しようとするこの国の支配層にとって、今や精神的権威は天皇ではなくアメリカにほかなるまい。アメリカの国益の実現のために粉骨砕身しているかのように見える彼らの姿は、「国民の統合」を上から破壊するものである。あるいは、沖縄の声を無視した基地建設の強行も、同じ作用をもたらしている。

このような状況下で「お言葉」は発せられた。敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の代に始まった象徴天皇制を、烈しい祈りによって再賦活しつつ、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。もしもこれに誰も応えることができないのであれば、天皇制は終わるだろう。現に国民が統合されていないのならば、「統合の象徴」もありえないからである。われわれはそのような岐路に立っていることを、「お言葉」は告げている。