上田正昭さん死去 88歳 日本古代史の第一人者 - 東京新聞(2016年3月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201603/CK2016031402000117.html
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日本古代史研究の第一人者で京都大名誉教授の上田正昭(うえだまさあき)氏が十三日、死去した。八十八歳。兵庫県生まれ。近親者で密葬を行う。死因は不明だが、近年は、がん治療を受けていた。
奈良県で、四世紀に三輪王権が成立したが、その後、五世紀に大阪府の勢力が支配したという「河内王朝説」を唱えた。また、朝鮮半島などから渡ってきた「帰化人」との用語が日本中心的だとして、「渡来人」を定着させた。
東アジアを視野に入れた研究でも知られ、朝鮮や中国との関係を重視して日本古代史を分析。日本神話や古代朝鮮史などの研究で業績を残した。一九九〇年にはアジア史学会の設立に参加、同学会会長も務めた。
太平洋戦争中、学徒動員でいた東京の石川島造船所で空襲に遭い、学友を失い、天皇制とは何かと考えたのが古代史研究のきっかけだった。
五〇年、京都大文学部卒。京都の府立高校に教諭として勤務した後、京大助教授、京大教授を経て九一年から大阪女子大(現大阪府立大)学長。島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長も務めた。
在日朝鮮人差別や被差別部落の問題にも積極的に取り組み「戦争こそ最大の人権侵害」と説いた。「日本古代国家論究」「日本神話」「古代伝承史の研究」など著書多数。古代から続く小幡神社(京都府亀岡市)の宮司を務める家柄としても知られていた。
「現代の若者は、戦争のむごさを知らない。太平洋戦争で、なぜあれほど多くの人々が死なねばならなかったのか。戦後七十年となった今、それだけは伝えておきたい」
死去した歴史学者上田正昭氏は、二〇一五年十一月、共同通信のインタビューでこう繰り返した。
戦争末期、空襲で、多くの友人を失った。「黒焦げになりながら、助けを求めて息絶える瞬間まで動いていた人々の姿が忘れられない。誰もが敗戦を覚悟していたのに、日本は『天皇陛下の御ために』と言いながら破局に向かっていった。天皇制とは何なのか。そう思ったのが古代史研究のきっかけです。私の研究生活は、あの悲惨な焼け野原から始まりました」
敗戦で皇国史観が否定され、歴史観の立て直しが迫られた日本。上田氏は、日本だけでなく中国や朝鮮半島など東アジア諸国の文献や民俗学、最新の発掘成果を検証し、「島国である日本は古来、海の道から多くの渡来人や文化を受け入れてきた。日本の歴史は、善き隣人である大陸との交流史」と訴えた。
約七十年の研究生活で、著作は八十一冊。晩年はぼうこうがんと闘いながら執筆を続け、二〇一一年の東日本大震災は病床でニュースを聞いた。
「電力会社や学者が『想定外』と言うのを聞いて怒りに震えました。平安時代の八六九年に起きた貞観津波はしっかりと記録されているのに、なんと無責任な。歴史の教訓を、将来に生かさなければ」と話していた。