桐生悠々を偲んで 真実を伝える覚悟 - 東京新聞(2015年9月10日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015091002000137.html
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安全保障関連法案の成立が強行されようとしている今年ほど緊張感を持ってきょうを迎えたことはありません。反骨の新聞記者、桐生悠々(ゆうゆう)の命日です。
一八七三(明治六)年に生まれた桐生悠々は、明治後期から昭和初期に健筆を振るった新聞記者です。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、新愛知新聞などで編集と論説の総責任者である主筆を務めた、われわれの大先輩です。
本紙が一昨年から随時掲載し、識者らの声を紹介する欄のタイトル「言わねばならないこと」は悠々が晩年、自ら発行していた個人誌「他山の石」に書き残した言論人の心得でもあります。
その遺品が今年、遺族から出身地の金沢市にある「金沢ふるさと偉人館」に寄託されました。「他山の石」各号=写真=や「廃刊の辞」の直筆原稿、新聞記事のスクラップ、友人知人からの手紙などです。最終的には約五百点に上るといいます。当時の言論状況を探る上で貴重な資料です。
その中に、購読者の一人で「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれ慕われる政治家、尾崎行雄から、悠々に宛てた手紙があります。
「何に故に禁止在るや、解(わか)らぬ連中にハ困り入り候私の『独裁政治排撃』の小冊子も禁止され候」
一九三七(昭和十二)年一月、他山の石が発行禁止処分となったことに憤り、自ら発行した小冊子も、同じ発禁処分を受けたと伝える内容でした。
◆国民生活軽視を批判
他山の石の発禁理由は「国防の充実と国民の生活安定」という悠々の文章でした。「出先の軍隊が中央の命令に従わないで勝手に盲動(もうどう)」という部分が「出先軍部の行動歪曲(わいきょく)」とされたのです。
三一(昭和六)年の満州事変が関東軍の暴走だったことは、今では歴史的事実として堂々と記せますが、当時は難しいことでした。
この文章には「国防充実と国民生活の安定とは両立すべからざるもの」との記述もあります。時の政府が国民生活の安定を「重要なる一政策」と宣言しながら、予算の65%を国防の充実に充て、国民生活の安定には5%しか充てていない、との批判です。
また、軍備はいかなる場合も攻撃的であり、濫用(らんよう)される▽軍備の拡張で「権力平衡」が破壊されれば、仮想敵との間で「永久に軍備拡張の競争戦」を演じなければならず、財政や消費経済面から許されない−とも記しています。
悠々の指摘は、海外にまで視野を広げた豊富な知識と判断力に基づいて、本質を言い当てたものです。その慧眼(けいがん)を当局は恐れ、発禁処分にしたのでしょう。
偉人館で遺品の整理・研究を進める学芸員の増山仁さんは、悠々の文筆活動を「おかしいことはおかしいという、今のジャーナリズムにつながる」と評します。私たちも見習うべき真の記者魂です。
長野県の信濃毎日新聞主筆だった悠々は三三(昭和八)年、自らの筆による評論「関東防空大演習を嗤(わら)う」が在郷軍人会の怒りに触れ同社を追われます。新愛知時代に住んでいた今の名古屋市守山区に戻り、糊口(ここう)をしのぐために発行を始めたのが他山の石でした。
購読者には、名古屋周辺の財界・知識人や金沢時代の友人を中心に、戦後首相を務めた芦田均、作家の徳田秋声終戦時の内閣情報局総裁、下村宏、岩波書店の創業者、岩波茂雄らがいます。広告には当時、名古屋にあった銀行など企業の名前も並びます。
当局に目をつけられ、たびたび発禁となる厳しい社会的状況でしたが、悠々の論調に共感する多くの人々に支えられていました。悠々は決して「孤高のジャーナリスト」ではなかったのです。
◆軍備拡張競争に警鐘
悠々は四一(昭和十六)年九月十日に亡くなる直前、他山の石の廃刊の辞として「戦後の一大軍縮を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何(いか)にも残念至極」と書き記し、自ら発送しました。
悠々が見たいと切望した一大軍縮は戦後、日本国憲法九条に結実しますが、安倍内閣憲法の解釈を変えて「集団的自衛権の行使」に道を開こうとしています。
悠々が指摘した「永久に軍備拡張の競争戦」が再び繰り返されることはないのか。政府の言い分を鵜呑(うの)みにせず、権力に抗して、自らの判断力で読者に訴える。その志と気概は、私たちが受け継がねばと、悠々を偲(しの)んで思うのです。