髪、靴、ガス室生々しく=アウシュビッツ解放70年−ポーランド-時事ドットコム(2015年1月20日)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201501/2015012000472&g=int

オシフィエンチムポーランド南部)時事】第2次世界大戦中、ナチス・ドイツが行った約600万人に上ると言われるユダヤ人大虐殺の象徴の地、ポーランド南部オシフィエンチム(独語名アウシュビッツ)の強制収容所旧ソ連軍に解放されてから27日で70年になる。現場は国立博物館となっており、想像を絶する非人道的殺害の痕跡が今も残されている。

ポーランド南部の中心都市クラクフから車で約1時間。民家が点在し、針葉樹林や冬枯れた木立が所々に広がる地域に強制収容所跡はある。

博物館はアウシュビッツ第1と第2(ビルケナウ収容所)の二つから成り、広さは計約190ヘクタールに及ぶ。茶色と黒が基調の外観は一見工場か倉庫のようで、ここで人類史上最悪の犯罪が行われたようには見えない。

敷地内に入ると、れんが造りの建物が整然と並ぶ。その中には被収容者の居住スペースもあり、粗末な板を組み立てただけのベッドが据えられている。殺害用のガス室内は地下壕(ごう)のようで、造りの荒いコンクリート壁が四方を囲み、冷たい空気が空間を満たす。

展示された被収容者の靴数万足やかばん、眼鏡、布地用に切り取られた犠牲者の髪約2トンが生々しい。

ガス室と小道を1本隔てただけの建物には当時、食堂が入っており、ナチス親衛隊員らが使っていたと考えられている。窓からガス室周辺の様子が見えたはずで、虐殺行為に対する感覚がいかにまひしていたかを示している。

アウシュビッツ収容所は1940年の設立から徐々に規模を広げ、最終的にユダヤ人を中心に約110万人を殺害。各地の収容所の中で最多の犠牲者を出した。多くは到着と同時にガス室に送られた。最終的に生還できたのはわずか10人に1人だった。

ドイツ生まれで、収容所生活を生き抜いたハインツ・ヘスデルファーさん(91)は取材に対し、「『ここへは門から入り、出られるのは煙突からだけだ』と毎日言われていた」と語った。宣告された半年間の収容所生活の途中で命を落とさなくても、最後はガス室送りになるという話も聞かされていたといい、過酷な精神状態を強いられていたことをうかがわせた。

解放70年の27日には、大規模な式典が収容所跡で開かれる。