覆う空気 ムラ社会の少女 モノ言い続ける-東京新聞(2015年1月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015010902000136.html?ref=rank
http://megalodon.jp/2015-0111-1033-50/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015010902000136.html?ref=rank

富士山を背に田畑が広がる静岡県上野村(現富士宮市)。戦後間もない一九五二年、高校二年の石川皐月(さつき)が新聞社に出した一枚のはがきで、村の名は全国に知られることになった。記されていたのは、国政選挙での替え玉投票の疑惑。地域のまとめ役が入場券をおおっぴらに集めて回っていた。村では多くの逮捕者が出た。憎悪の的となった石川一家は追われるように村を出た。
◆投書で村を追われ
六十年余たった今も、旧村民は口を閉ざす。事件について尋ねると、農作業中の年老いた男性は「蒸し返すのか」と鍬(くわ)をぎゅっと握った。別の古老は「村の恥をさらした家だ」とすごんだ。

皐月と幼なじみという小林要(78)だけが重い口を開いた。「妻も亡くなり子どもも独立した。この際正直に話そうか」

小林の父も逮捕された。釈放された時に自宅に集まった村人のひそひそ声を忘れたことはない。「石川家は村の敵。村八分にしよう」。胸中は揺れた。子どもとしては「ここまでやらなくても」。一方で「皐月の度胸はすごい」と思った。

今なら言える。「皐月を憎いと思ったことは一度もない。民主主義ってこういうことなんだって」。自分たちで未来をつくっていく選挙は、小林にとっても「戦後」そのものだった。


高校生時代の皐月さんと、皐月さんを応援する富士宮高新聞の紙面

二〇〇六年三月、東京地裁。結婚して二人の子どもを育てた皐月は、自衛隊イラク派兵違憲訴訟の原告の一人として法廷に立っていた。「イラク派兵が強行され、このままでは憲法は死滅してしまう」。軍国主義の教科書を墨塗りにする衝撃から始まった戦後。ムラ社会の少女の心の空白に「まっすぐ」入ってきた民主主義は半世紀たっても、色あせていなかった。

戦争体験者が多くを占めた十五人の原告団に一人、親子ほど年の離れた仲野佳子(45)=東京都三鷹市=が名を連ねていた。

〇一年、夫の転勤で暮らした米ニューヨークで中枢同時テロ事件に遭った。悲しみと恐怖が、星条旗のもとでの戦意へと結実していくのを肌で感じた。「攻撃する側にもされる側にも家族がいる。流れを止めるため、声をあげないと」。帰国後にアルバイトしていた弁護士事務所の誘いで原告に加わった。

「ノー」「反」「脱」。強者に抵抗する言葉をどこか言いにくい今の日本は「9・11後の米国に似ている」と思う。「国が禁止したわけじゃなくて、民の側からも空気をつくり上げていっちゃう」
◆「日本、後退している」
皐月の胸には失望感が広がっている。「努力すれば日本は良くなるって思ってきたけど後退してるんじゃ」。七十九歳の自分が出る幕ではないが、「後輩」たちには伝えたい。

「民主主義は努力し続けないと手に入らないもの。モノを言い続けるしかないのよ」
 (文中敬称略、木原育子)

参考サイト)
静岡県上野村村八分事件(ウィキペディア)
http://urx2.nu/g5zJ