永遠の平和(7)「千葉は戦後日本の原点」 東大・加藤教授に聞く:千葉-東京新聞(2015年1月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20150108/CK2015010802000154.html
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明治・大正期まで歴史の巻物を広げ、戦後に至る日本の政治と外交の歩みを、県ゆかりの三人の足跡をたどって振り返った。鈴木貫太郎、石井菊次郎、白鳥敏夫。三人から浮かぶ「戦後七十年の原点」とは何か。「千葉県の歴史 通史編 近現代」の執筆にも関わった歴史学者の東大文学部の加藤陽子教授に聞いた。

−千葉は本土決戦の戦場になる可能性があった。
九十九里・片貝(かたかい)海岸から上陸する米軍を、大本営は東金や飯岡(現在の旭市)などの丘陵地で迎え撃つ作戦だった。陣地を構築しようとしたが、資材不足などで未完成に終わった。また海岸線の防御も砂地のため進まなかった。この防御態勢の遅れが決定打となり、天皇も「最後の一撃」を断念し終戦を決断した。この意味で、千葉は戦後日本の原点だったと言える。

−鈴木は天皇が和平を望んでいることを読み取り、終戦へ動いたとされる。
鈴木の妻タカは天皇の養育係だった。その人を妻にし、侍従長も務めた鈴木には格別の信頼があったはず。この宮中における親密な人間関係が影響した。

−鈴木の終戦工作は、真意を隠した「腹芸」と言われる。
軍部の反発を買ったロンドン海軍軍縮条約問題や、2.26事件の経験を反省材料としたのだろう。反対派に足をすくわれないように慎重に事を運んだ。

ポツダム宣言の「黙殺」は原爆投下の口実にされたという批判もある。
米国の政策決定の研究によれば、「黙殺」発言の有無にかかわらず投下は既定の路線だったとの見方が現在では有力だ。

−外交官としての石井菊次郎の特徴は。
英米協調派で外交思想にも詳しく、独伊と結ぶデメリットを最もよく分かっていた。四〇年九月の枢密院本会議で天皇臨席のもと、三国軍事同盟の「反対」演説を行った。近衛文麿(このえふみまろ)首相や松岡洋右(ようすけ)外相が推進派のため覆せないと分かってはいたが、国際信義を裏切ってきたヒトラーのドイツや、権謀術数のマキャベリを生んだイタリアなどと日本が一緒にやっていけるのか、と激しく政府を批判した。

−独伊との同盟推進論者の白鳥が、叔父の石井の外交観を「古い」と切り捨てる場面があった。
確かに日本はゼロ戦、ドイツはV2ロケットと「新しい」特殊な兵器を開発したが、それは国民の生活を犠牲とした膨大な軍事費のたまもの。本当に強い国とは、自動車を消費財として普通に作れる国であり、「古い」けれど文化の層が厚い国だ。

−現代への教訓は。
特定秘密保護法では、秘密を扱う公務員らの人物評価で海外渡航歴も調査対象になるという。日清・日露戦を率いた元勲など、海外に渡って見聞を広めてきた人も多い。自国文化を相対化する機会を大切にしなければ、国を担う人々の水脈が細ると憂えている。

歴史を学ぶと具体例を挙げられる。困難に直面したら「あの時はこうだった」と考えられたら、選択肢も増えよう。「この道」しかないと言われても、第二、第三の選択肢を準備しておきたい。目先のことに惑わされず即断をしないこと。三国同盟締結時の石井の「反対」演説などを思い出し、外交や政治にあたっては時に臆病になることも必要だ。

<かとう・ようこ> 1960年、埼玉県生まれ。東京大大学院博士課程修了。山梨大助教授、スタンフォード大フーバー研究所訪問研究員などをへて、2009年から東京大文学部教授。専攻は日本近現代史。主な著書に「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社)、「昭和天皇と戦争の世紀」(講談社)。