[新聞週間に]権力の監視を怠らない - 沖縄タイムス(2019年10月16日)

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/485173
http://web.archive.org/web/20191017001702/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/485173

ことしに入って、報道や言論、表現の自由を脅かしかねない事案が県内外で相次いでいる。
7月、参院選の舞台裏を書いた沖縄タイムス琉球新報の県内2紙に対し、自民党県連が会見を開き、抗議した。
県連幹部は、沖縄タイムスの記事の内容の一部に「事実誤認」があるとして訂正を求めたほか、記事中の匿名の発言者の名前を明かすよう迫った。
特定の記事に疑問があればその報道機関に個別に抗議するのが通常だ。直接関係のない地元テレビや全国紙を集めて会見を開くやり方は極めて異例といっていい。
記事を執筆した本紙の記者は、取材の正確さに自信を持ちながらも、会見という場で抗議の矢面に立たされたことに戸惑ったことを吐露した。
自民党県連は否定したが、会見は、記事を書いた当事者を萎縮させ、メディア全体をけん制するもので、「不当介入」「圧力」にほかならない。
記事は、選挙で県連内にくすぶっていた不満の声を白日の下にさらした。
県連幹部にとっては「不都合な事実」だったのだろう。
権力者にとって不都合な事実こそ、有権者が知るべき真実でもある。
ここ数年、政権に批判的な記者を非難するなど、報道圧力と捉えられかねない政府の動きがあり、自民党県連の会見はそれに通じるものである。
国民の「知る権利」に応えるために新聞が果たすべき役割は、権力の監視を怠らないことだと肝に銘じたい。

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言論を封じ込めようと、権力の矛先が市民に向かう前代未聞の事態も起きた。
9月、宮古島市の下地敏彦市長が、不法投棄ごみ撤去事業が違法だと市に公金返還を求め訴訟を起こした住民を、名誉毀損(きそん)で訴える議案を市議会9月定例会に提出した。
すでに市の勝訴が確定していたにもかかわらず、新たな裁判を起こすのは、言論を封じ込めることを目的とした「スラップ訴訟」だ。
下地市長は議案を取り下げたが、「原告側がどう対応をするか、行動を注視し対処する」と述べ、再提出の可能性もほのめかした。
「気に入らない言動があれば、提訴するという脅し」と原告市民は危ぐする。
異論をとなえる者を力でねじふせようとする行為は、民主主義にもとる。

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県外では、表現の自由を封じ込めようとする動きがあった。元「従軍慰安婦」を象徴する少女像などを展示する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」にテロ予告や脅迫が殺到し、一時中止に追い込まれた。
政府は自由な表現活動を守る方向に動かず、逆に補助金の不交付を決定した。
15日から新聞の使命や責任を考える「新聞週間」が始まった。自民党県連会見をはじめ、県内外で起きた、憲法がうたう言論の自由表現の自由を脅かす動きは、新聞の役割を再確認する機会になった。
ひるまず事実や真実を伝えていきたい。

 

あいち芸術祭 閉幕後も山積する課題 - 朝日新聞(2019年10月16日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S14218963.html
https://megalodon.jp/2019-1016-0535-24/https://www.asahi.com:443/articles/DA3S14218963.html

あいちトリエンナーレが閉幕した。脅迫や執拗(しつよう)な抗議で中止に追い込まれた企画「表現の不自由展・その後」は、最終盤になって再開にこぎつけた。入場が抽選制になるなどの制限は残ったが、不当な圧力に屈しない姿勢を示せたのは良かった。
一連の出来事は、表現活動をめぐる環境が極めて危うい状態にある現実を浮き彫りにした。引き続き問題の所在を探り、是正に取り組む必要がある。
騒ぎの発端は、作品を見ることも、制作意図に触れることもないまま、断片情報に基づく批判が開幕直後に寄せられたことだった。河村たかし名古屋市長ら一部の政治家が、同じく表面的な事象だけをとらえて攻撃を加え、火に油を注いだ。
とどめは文化芸術を守るべき文化庁だ。9月下旬になって、内定していた補助金の不交付を決めるという暴挙に出た。
申請手続きに不備があったというのが理由だが、菅官房長官らは早々と8月初めの時点で支給の見直しを示唆している。表現そのものに圧力をかけようという意図は明白だ。補助金の審査に関わる外部専門家の意見も聞かず、再検討の経緯を記録した文書もない。行政が本来の道を踏み外し、暴力で芸術を圧殺しようとした勢力に加担した。そう言わざるを得ない。
宮田亮平長官は東京芸術大学の前学長だ。事態の深刻さは認識しているはずだが、部下が不交付を決め、自分は関与していないと釈明する。本当であれば組織の長としての資質を欠く。文部科学相も首相も「われ関せず」を決めこんでいる。
全てがあいまいなまま、補助打ち切りという事実だけが残ればどうなるか。「議論を呼んだり、政府ににらまれたりする恐れのある活動は控えよう」という萎縮が広がるのは必至だ。
美術、文学、音楽を問わず、既成の概念や価値観をゆさぶる作品が、次の時代を切り開き、自由で多様な方向に世界を広げる原動力になってきた。それが否定されてしまえば、社会は閉塞(へいそく)状況に陥るばかりだ。
慰安婦に着想を得た少女像や昭和天皇を含む肖像などが燃える映像作品に対して、「日本へのヘイト」との批判も飛び出した。これもあきれる話だ。
表現の自由への過度な制約にならぬよう、規制すべきヘイト行為とは何か、社会全体で議論を重ね、定義づけ、一線を引いてきた。明らかにそれに当たらない作品をヘイトと指弾することは、蓄積を無視し、自分が気に食わないから取り締まれと言うだけの暴論でしかない。
ゆるがせにできない課題が数多く残されている。閉幕で一件落着ということにはできない。

 

<障害者のきょうだいたち 広がる支え合いの場> (上)「二の次」で重ねた我慢 - 東京新聞(2019年10月16日)

https://megalodon.jp/2019-1016-0927-23/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/living/life/201910/CK2019101602000153.html

 

私的年金 自助の支えも拡充を - 東京新聞(2019年10月16日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019101602000137.html
https://megalodon.jp/2019-1016-0814-35/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/editorial/CK2019101602000137.html

公的年金に上乗せする給付を得られる私的年金制度の見直し議論が進んでいる。私的年金は企業や個人が加入する制度である。高齢化で働く期間が延びる時代、老後に備える見直しは欠かせない。
金融庁報告書の「老後に二千万円不足」問題は、あらためて高齢期は公的年金だけでは不安は解消されない事実を明らかにした。
政府はまずその事実を丁寧に説明する責任がある。
その上で、自助の私的年金がある。より多くの人が利用できるよう見直しを進めるべきだ。
すべての国民を対象とする国民年金(基礎年金)と、会社員や公務員が加入する厚生年金が公的年金である。よく基礎年金を建物の土台として一階、厚生年金を二階に例える。私的年金は上乗せの三階部分にあたる。
その中で企業が従業員向けに設ける制度が企業年金だ。原則、企業が掛け金を出し、運用で増やして退職後に受け取る。
厚生労働省は、制度に加入できる年齢の上限を引き上げる見直し案を示した。来年の通常国会への関連法案の提出を目指す。
案は企業年金のうち、企業が拠出額をあらかじめ決めて運用は従業員が行う企業型確定拠出年金について加入年齢の上限を今の六十四歳から六十九歳に引き上げる。
勤務先に企業年金のない会社員や、公務員、自営業者、主婦などが加入できる個人型確定拠出年金「iDeCo(イデコ)」も五十九歳から六十四歳まで引き上げ、掛け金を払えるようにする。
現在、六十~七十歳の間で選べる受給を始める時期は、七十歳以降も可能とする。
公的年金もより長く加入できるよう見直しの議論が進む。上乗せの私的年金も働き方の変化に合わせた改善が望ましい。
少子高齢化公的年金の目減りが避けられない。私的年金は高齢期を支える重要な制度になってきたが、改善の余地はある。転職しても加入記録を持ち歩ける制度や中小企業の加入促進などもっと使い勝手をよくしたい。
私的年金は自身で運用をするため金融知識の周知も欠かせない。特に若い世代への知識普及にも政府と企業は取り組むべきだ。
私的年金は、運用できる資産がない人との間で格差が広がる懸念がある。なにより政府は公的年金の給付を増やす改善に知恵を絞るべきだ。さらに生活保護、低廉な住宅の確保など年金制度を超えた支援も幅広く考えたい。

 

  

大川小の教訓 事前防災に力を注げ - 東京新聞(2019年10月16日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019101602000138.html
https://megalodon.jp/2019-1016-0812-52/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/editorial/CK2019101602000138.html

東日本大震災の大津波で大川小(宮城県石巻市)の児童ら多数が犠牲になった。国家賠償訴訟では遺族側が勝訴した。事前防災の不備を認めた内容だ。全国の学校では早急に見直しが迫られよう。
児童七十四人と教職員十人が死亡・行方不明になった惨事だった。児童二十三人の遺族が起こした訴訟は今月、最高裁が市と県の上告を退ける決定をした。そのため十四億三千万円超の支払いを命じた仙台高裁判決が確定した。
一審判決は津波発生後の学校側の対応に過失があったことを認めたが、二審は震災前の防災体制を問う「事前防災」について言及しているのが特徴だ。大川小の危機管理マニュアルについて、校長ら学校幹部は適切な改定作業を怠り、市教委は不備の見直しを指導する義務を怠った、その「組織的過失」を断じたのだ。
ハザードマップでは大川小は津波の浸水想定区域の外にあった。そのため一審は「震災前の防災対策に過失がない」と判断した。だが、大川小の危機管理マニュアルは避難場所を「近隣の空き地・公園等」と記しただけだった。二審はまず、児童・生徒を守る学校には「地域住民の平均的な知識・経験よりも高いレベルの防災知識が求められる」ことを確認した。
ならば避難場所も具体的に明示し、保護者への児童引き渡し手順など適切なマニュアルを示さねばならない。その責務もあった。そうすれば、津波警報の発令時点で高台に避難し、事故を回避し得た。そんな論理だ。
学校現場には「専門家でない」「多忙ゆえに困難だ」という声があるかもしれない。だが、個人には限度を超えた大災害に、組織で立ち向かうのは自明の理だ。それゆえ、裁判所は児童の命を守る組織全体の在り方を問うている。
現場教員の負担軽減を図りつつ、学校と行政側は常にハザードマップを検証し、改定せねばならない。行政側にはさらにハード面の整備などサポートが必要になる。子どもたちを預かる学校と行政が、その命を守るために最大限の努力を払うのは当然であろう。
今回も台風19号で各地に大きな被害が出ている。首都直下や南海トラフなど巨大地震も予想される。学校施設は避難所などの役割が期待されている。大川小のように悲劇の場にもなりうる。それゆえ事前防災が極めて大切なのだ。実効性あるチェックを急ぎ、万一の備えを期さねばならない。

 

【私説・論説室から】ノモンハン事件80年 - 東京新聞(2019年10月16日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2019101602000139.html
https://megalodon.jp/2019-1016-0930-39/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/ronsetu/CK2019101602000139.html

「あのような大沙漠(さばく)、なんにもない不毛地帯を、千メートルや二千メートル局地的に譲ったとしても、なんということもないだろうにネー」
旧日本・満州国軍と旧ソ連・モンゴル軍による一九三九年のノモンハン事件を扱った半藤一利氏の著作「ノモンハンの夏」に、敗色濃い戦場の視察を終えた旧陸軍参謀本部幹部がつぶやく場面がある。
八十年経過した今、双方で万単位の死傷者を出した国境紛争の現場を訪れてみて、そのつぶやきに似た感慨を抱いた。
三六〇度見渡しても草原が果てしなく広がっているだけだ。大海原のような無辺際の空間に圧倒されて、自分の存在の頼りなさを覚え、国境問題も些事(さじ)に思えてくる。実際、家畜を連れて移動する遊牧民に国境は存在しなかった。
中国・内モンゴル自治区ノモンハン村。牛や羊がのんびりと草を食(は)み、草原の一本道を走り抜ける車のエンジン音と風の音だけが聞こえてくる。
ノモンハン事件終結後からほどなくしてソ連フィンランドに軍事侵攻し、領土拡張を果たしたが、フィンランド軍よりもはるかに多い犠牲を払った。
「冬戦争」と呼ばれるこの戦いと比較して「ノモンハンは子どもの遊びだ」と言い放ったのは、当時のソ連の独裁者だったスターリンである。 (青木 睦)

 

【暮らし】<考えようPTA インタビュー編>(下) 味方をつくる政治そのもの - 東京新聞(2019年10月12日)

https://megalodon.jp/2019-1016-0931-38/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/living/life/201910/CK2019101202000175.html

 

(政界地獄耳) 二階「まずまず」発言の責任 - 日刊スポーツ(2019年10月15日)

https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201910150000076.html
https://megalodon.jp/2019-1015-0942-39/https://www.nikkansports.com:443/general/column/jigokumimi/news/201910150000076.html

★「とにかく人命第一」と首相・安倍晋三が言うものの、13日に台風19号の緊急役員会で自民党幹事長・二階俊博は「予測に比べると、まずまずに収まった感じですが、それでも相当の被害が広範に及んでいる」と発言した。会議後には「日本がひっくり返るような災害と比べたら、という意味で、1人亡くなっても大変なことだ」と言い訳の予防線を張った。

★この物言いは党内でも眉をひそめる発言だろう。高いところから国民を見下ろす殿様の思いだろうか。恐怖や不安、情報過疎に陥った被災者、固唾(かたず)をのんで台風が過ぎ去るのを待った人たち、消防や警察、自衛隊の不休の努力と政治はこんなにかけ離れてしまったのか。自民党は時たま、要職の人物がこんな無神経な発言を繰り返す。ただ今回はそれをたしなめる幹事長の発言となれば、ことは重大、国民はなめられたものだ。

★その二階派で復興相を務めていた今村雅弘は17年4月4日、東日本大震災自主避難者に対し国に責任はなく自己責任だと発言。同25日の二階派のパーティーであいさつし、この震災に対して「(発生場所が)東北で地方だったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大(ばくだい)な、甚大な被害があった」と発言。1時間半後に官邸から事実上更迭された。

★趣旨は通じるとか前後の文脈を見ればと擁護する人もいるかもしれない。だが政治家だ。政権与党の幹事長や閣僚の発言だ。揚げ足ではない。権力者としてのたしなみの話をしている。その場で適切な言葉を使い分ける生業(なりわい)だからこそ、失言は大きな責任が伴うのではないか。こういった国民を突き放す政治が二階派、ひいては二階自身の価値観なのだろうか。この発言を黙殺する官邸も同罪だが、本来なら更迭が筋だろう。(K)※敬称略