(余録)環境省の前身の環境庁は… - 毎日新聞(2024年5月10日)

https://mainichi.jp/articles/20240510/ddm/001/070/091000c

環境省の前身の環境庁は1971年7月1日、霞が関の官庁街から離れた木造庁舎で出発した。水俣病など公害対策が議論された前年の「公害国会」後に設置が決まった。

4日後の内閣改造で長官に就任したのが医師出身の大石武一氏だ。「実質的初代長官」は早速、動いた。翌8月、熊本、鹿児島両県から水俣病認定を棄却された9人の処分を取り消し、「疑わしきは救済」と認定基準を緩和した。

水俣病問題で「唯一と言ってよいまともな行政の対応」との評もあった。翌年には現地で6時間にわたって患者や家族と懇談し、予定外の患者宅も訪れた。小紙は「案内の県、市職員が時間を気にしてムッとした表情を見せる」と書いた。

そんな原点は忘れられたのか。水俣病を扱う環境省特殊疾病対策室の室長らが伊藤信太郎環境相と懇談した患者団体代表らのマイクを「持ち時間」の3分で切り、発言をさえぎった問題である。

「これまで究極の『後ろ向きの行政』を担当していましたが、今後は真逆の『前向きの行政』を所掌いたします」。熊本県民テレビのデスクが対策室から異動した官僚から受け取ったメールという。「お役所仕事」の背景が透けて見える。

水俣病は社会のしくみや政治のありよう、自らの生きざままで残酷に映し出す鏡」。「水俣学」を唱えた原田正純医師の言葉だ。水俣で頭を下げた伊藤氏は涙を浮かべた。現場で誤りを正せなかった悔悟なら、鏡に映った環境行政の今を見直すことで患者らの声に応えてほしい。