<南風>人を尊重する社会とは - 琉球新報(2022年9月10日)

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中学3年の秋の放課後、帰宅のためバスを待っている間、駅の近くの本屋で漫画を立ち読みしていた。肩先に見知らぬ中年男性の身体が何回か当たるのは偶然だとしか思わなかった私に、その男性は突然上から覆いかぶさるようにして抱きついてきた。なんとか振り払い、店の出口に走り去りながら、それまで感じたことのなかった恐怖と「罪悪感」と、なぜか罪悪感を覚えることへの何とも言えない腹立たしさがごっちゃになって泣きそうになった。

この時の感覚は、弁護士として性被害の事件に取り組む度に生々しくよみがえる。そして他人から言われたかもしれない、のんきに立ち読みしていた「被害者(私)の落ち度」という言葉や、何度か身体が触れても逃げなかったのだから「黙認していたと思われても仕方がない」との言葉を想像するだけで足元が揺らぐような感覚を覚える。

性被害者は、自分の身体や心を加害行為で傷つけられた上に、こうした世間の目や言葉でさらに傷つく。なぜなのだろう。誰でも簡単に取れるように店舗に並べられた商品が盗まれたとき、世間は「店側の落ち度」とよってたかって被害者を責めることはない。悪いものは悪いと言い切るではないか、それなのになぜ侵害されるものが性的自由だと、こうまでに被害者は“厳しい裁き”を受けるのか。

性被害を被った人は、何よりも、「一方的に性的に扱ってよい客体」と見なされたという事実に深く傷つく。そこにその人を一人の人間として尊重する姿勢はないからである。そしてそのような加害意識が生まれる背景には社会全体の意識があると思われてならない。互いを個として尊重しきれない社会は、彼だけでなく我にも冷たい社会であるはずだと、性被害事件はいつも私に問うてくるのである。
(林千賀子、弁護士)