<南風>復帰前夜の思い出 - 琉球新報(2022年1月27日)

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沖縄と縁づいてから50年を超えた。建設関係に勤めていた父が、八重山地方の難視聴域解消のために電波塔建設に関わったことに始まる。沖縄はまだ渡航のためにパスポート(身分証明書)が必要な海外だった。1964年の日本の渡航自由化から日も浅く、海外旅行自体が珍しかった。
初めての渡航前にご近所が集まり四畳半の茶の間で掘りごたつに乗せた鍋を囲んでの壮行会の白黒写真が残っていた。夕暮れ時には風呂を沸かすまきの煙が帰宅を促していた。父はその後何度か渡航するが、石垣空港に輸送機?で渡ったことや空港の周りでは水牛が水浴びしていたこと、ヘビ嫌いの父が山道でハブと遭遇した時のことなどを話してくれた。パスポートの表紙は緑色で、1ドルは360円の固定相場制だった。濃紺でビニール製のJALのエアラインバッグとジョニーウォーカー赤ラベルが印象に残っている。
1980年に首里琉球大学に入学した。今から思えば復帰のドサクサからあまり時間がたっていなかった。今でも交流が続いている人情に厚い石垣出身の父の知人が、何かと世話を焼いてくれた。東村から北の国道は未舗装で対向車線の信号機がこちら向きに点灯していた。同期生が中学まで発電機で暮らしていたと聞いた時は驚いた。
子どもが小学校に上がるのを機に瀬底島から名護に移った。冬日和にアパートのベランダで洗濯物を干していると隣家のボイラーの匂いが鼻腔(びくう)を突いた。フラッシュバックしたのは子どもの頃の寒い夕、石油ストーブをマッチでつけた時のワクワクした思いだった。
TOKYOは世界屈指の国際都市になった。石垣島と山原は国立公園になった。父たちは変化を創り、私たちは変化の中で育った。私たちも次世代にグローバルな変化をもたらす。懐かしんでくれるだろうか。
(中野義勝、沖縄県サンゴ礁保全推進協議会会長)