(筆洗) 歌手ニナ・ハーゲンが日本に本格的に紹介されたのは、一九八〇… - 東京新聞(2021年12月4日)

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歌手ニナ・ハーゲンが日本に本格的に紹介されたのは、一九八〇年代の前半であったか。おどろおどろしいメークや派手な歌い方が印象的で、社会への不満や違和感を発散しているようでもあった。出身の東ドイツを離れて、西側でも人気を得た「パンクロックの母」である。
温厚そうな表情をたたえ、物理学者でもあるドイツのメルケル首相とは、東独育ちという共通項があるにせよ、対極の人物としか思えない。先日の退任式で、メルケル氏が演奏をリクエストした三曲の中の一つは、そのパンクの母の曲であったという。
過去にクラシックなどが演奏された場で、驚きの選曲として、報じられている。東独時代のニナ・ハーゲンのヒット曲は、パンク色の濃い曲ではないが、社会に対する風刺のような歌詞もあるそうだ。
分断国家の中で、融和を夢見ていた時があったのだろうか。欧州メディアによると、若いころの東独での日々については、さほど多くを語ってこなかったメルケル氏が、この曲は「私の青春時代のハイライト」だと述べたという。
十六年首相を務めてきた。抵抗と批判も受けながら、移民や金融危機などで、分断が危ぶまれた国や欧州のかじを取り、融和を保とうと努めてきた。
多くの功績を残し、いよいよ退任である。式典で感慨深げに演奏を聴いていたという。熱かった若い時代と夢を思い出していたか。