<南風>子ども時代の音楽環境 - 琉球新報(2021年9月4日)

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およそ楽器と名の付く物は何もなかったけれど、わが家にはいつも音楽があった。長女次女三女の姉たちが、家事をしながら声を張り上げて歌っていたからである。「水色のワルツ」とか「サンタルチア」「トスティのセレナータ」など、私もいつの間にか覚え、それは今でも歌える。
上の姉たちが家を出た後は、長兄次兄と四女の姉がわが家の音楽のリーダーになった。私が小学校2年から5年間過ごした具志川村(現うるま市米原の借家は、田と畑に囲まれた静かな所で庭も広く、音楽をするにはいい環境であった。電気も十分に普及していない時代、夕食後は満天の星の下、わが家の音楽会が始まる。二部合唱もありである。
米原部落は軍用道路から奥まっていて、西の方に行けばキャンプ・へーグがあり、時々そこから脱走兵が出たらしい。公民館の鐘が激しく鳴り響き、戸締まりを厳重に、という達しが来る。そんな時も、私たちは家の中で声を潜めて歌うのであった。
わが家には、沖縄の歌、三味線をたしなむ者はいなかったが、私自身は地域の伝統芸能も好きである。
平安座を出て2年間暮らした勝連村平安名(現うるま市)では、旧盆の夜、勝連小学校の校庭で行われたエイサー大会を見に行った。白と黒の衣装に裸足、パーランクーだけで調子を取りながら粛々と踊る。派手さはないが、すごく心に残る。
村芝居の組踊も面白かった。あの時に覚えたせりふ回しが、今も脳裏に浮かんでくる。子どもの頃に伝統芸能に触れることができてよかったと思う。
コロナ禍で各地のエイサーが中止になり、車による道ジュネーで音楽を流した所もあったと聞く。子どもたちにも届いただろうか。遠い日に平安名で見たエイサーを、ふと思い出した。

(新垣安子、音楽鑑賞団体カノン友の会主宰)