(政界地獄耳) 人事すげ替えても中身は… - 日刊スポーツ(2021年2月19日)

https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/202102190000032.html

★結局、五輪村と官邸の合議では五輪相・橋本聖子という選択肢しか残っていなかったのではないか。今後、オリンピック(五輪)の縮小開催、中止にするか否か、観客を入れるか無観客にするか。中止の場合のスポンサーへの説明など、ほかにも残務処理まで入れれば嫌な仕事ばかりだろう。いずれにせよこの半年から1年間に、今後五輪のゆくえにかかわらず、前向きでない決断だけもしなくてはならない。五輪組織委員会会長に国民から批判を浴びる役割をアスリートに引き受けさせるというのは、酷だと判断したか。

★唯一、政治家であるという経験値と、前会長・森喜朗の薫陶を受けていることで橋本聖子ならなんとかしのいでもらえるのではないかという甘えと官邸の橋本ならくみしやすいという打算の結果と言えよう。女性、若い、アスリートというキーワードは国内政治と国民は納得するかもしれないが、そのプロセスも含めて世界に報じられれば、我が国の後進性も含め、お粗末な社会が露呈する。五輪はアスリートの戦いの場であり世界の進歩のスタジアムではないのか。

★最初に東京五輪を招致して失敗した都知事だった石原慎太郎も森と同様、その差別的発言が幾度も物議をかもしたが、2人が今回の五輪招致で夢見たのは1964年の東京五輪の高度成長だ。新幹線が通り高速道路が整備されて、東京に戦後の面影がなくなり国際社会への復帰を遂げた瞬間を思い描き、あの夢を再びと奔走した。だが、今回の五輪ではコンクリートのインフラではなく、人間の、人類の成長が求められてたことを感づいた国民と64年の五輪に引きずられた国民がいたことが存在したことが森問題で明らかになった。世界の平和や差別のない社会など長い五輪の歴史の中で五輪憲章は理想の題目ではなく、その実現に近づくところまで世界は迫っていたのに、東京五輪組織委員会はそれをいまだ建前として扱った。人事はすげ替えられたが本当にこの五輪は中身が伴っているのか。(K)※敬称略