(余録)「悪事は働かぬが大の放蕩者で… - 毎日新聞(2020年10月3日)

https://mainichi.jp/articles/20201003/ddm/001/070/093000c

「悪事は働かぬが大の放蕩(ほうとう)者で、やたらと人をそしる。人から借りた書物を返したことがなく、無くしてしまうことも」。これは江戸幕府奥医師だった多紀元簡(たきもとやす)の人物評という(氏家幹人(うじいえ・みきと)著「江戸の病」)
この記述、寛政の改革で知られる老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)のために近臣が隠密(おんみつ)を使って収集した風聞集「よしの冊子(ぞうし)」にある。幕府の役人らの評判や行状を記したこの冊子だが、医師で古医学に詳しい元簡のような人物も調査対象だったのだ。
元簡は後に奥医師を罷免されるが、先の風評と関係があるかどうかは分からない。さてこちらも官房長官時代に幹部官僚の行状に詳しいところを見せた菅義偉(すが・よしひで)首相である。もしやその手元には学者の「よしの冊子」もあるのだろうか。
各国の科学アカデミーにあたる日本学術会議の会員人事での、菅首相の前代未聞の任命拒否である。会議からの推薦候補はすべて任命するという従来の政府方針を翻し、6人を任命しなかったのだ。しかも理由は説明しようとしない。
6人は安保法制などで政府に批判的な学者たちだといわれる。もしもそれが理由なら、日本の学術を代表する機関への政治介入と非難されて当然だ。学問の自由に政治権力が手を突っ込む愚は、今日と将来の国民すべてを危うくする。
学界に縁のない首相が100人以上の候補から6人をどう選んだのか。理由の説明を拒むほど、その「よしの冊子」への想像がふくらむ。コロナ禍でただでさえ気鬱(きうつ)な世相を、これ以上暗くしないでほしい。