(私説・論説室から) 誰も置き去りにしない政治を 論説副主幹・豊田洋一 - 東京新聞(2020年9月17日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/56040

新政権の発足に当たり、気掛かりなことがある。菅義偉首相が、主権者である国民の一人一人が幸せを追求できる政治を実現しようとしているかどうか、である。
菅氏は目指す社会像として「自助・共助・公助、そして絆」を掲げ、その意図を「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」と説明する。
憲法によって、私たち国民はすべて、個人として尊重され、政治の役割は、私たちの命や自由、幸福追求の権利を最大限尊重することにある。
「自助・共助・公助」はこれまでも自民党が主張してきたことではあるが、菅氏のように政治家が「自助」をことさら強調すれば、自らの役割を放棄することにならないか。
もちろん、幸せを実感するためには、一人一人が努力することも必要だ。しかし、身体的なハンディがあったり、置かれた状況によっては、頑張りたくても頑張れない人もいるだろう。「自助」の強調は、自己責任論の強要につながりかねない。
お互いが支え合う「共助」の担い手として、菅氏が挙げる家族の関係は一人一人千差万別だし、地域コミュニティーの状況もそれぞれ違う。菅氏はそうしたことも頭に入れて「共助」と言っているのだろうか。
 そもそも、菅氏が官房長官として支えた安倍晋三前政権は、支え合いを壊すような「分断」の政治を進めてきた。
世の中を、政権の「敵」と「味方」に分け、敵は徹底的に攻撃し、味方には便宜を図ってきた。その結末が森友・加計学園や「桜を見る会」の問題だ。
こうした政治手法を目の当たりにすると、菅政権でも「公助」にあずかれるのは政権支持者だけなのか、と勘繰ってしまう。
すべての人が幸せになるというのは理想かもしれないが、一人一人が幸せを追求する権利を最大限尊重されているか、常に検証する必要がある。
誰一人として置き去りにされない。そんな一人一人に寄り添う政治への転機になることを望みたい。