(卓上四季) 京アニの世界 - 北海道新聞(2020年7月18日)

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1968年の横須賀線爆破事件の若松善紀死刑囚の絶詠に「心まづしく生きてむかへし長月よ日記の空白めだつ口惜しさ」という歌がある。まるで自身に向けられた刃(やいば)のような悔恨である。
犯行動機は幼なじみとの結婚の夢が絶たれたことだ。横須賀線は女性が利用していた。強い愛情ゆえの激しい憎悪があった。
青葉真司容疑者が憎んだものは何だったのだろう。1年前。京都のアニメ制作会社「京都アニメーション」(京アニ)のスタジオが放火された。
容疑者の自宅から京アニが関わった作品のDVDなどが見つかった。事件前には物語の舞台を巡る姿が防犯カメラに残されていた。応募した小説が盗作されたという一方的主張には、袖にされたことへの鬱憤(うっぷん)も見え隠れする。
京アニの作品の一つに兵士として拾われた戦争孤児が登場する。戦後、手紙の代筆という仕事を通じ、人々と出会うことで感情を取り戻していく物語は幅広い世代の心を揺さぶった。その少女の姿と重なったのか、孤立していた容疑者の境遇を憂うファンの声を何度か耳にした。「語り合える相手がいたならば」。そう気にかける人々がいたことを容疑者は知っているだろうか。
裏切りもあれば、思いが報われぬこともあるだろう。それでも、人生が生きるに値することを教えてくれたのは、ほかならぬ青葉容疑者自身が共感した京アニの世界ではなかったのだろうか。2020・7・18