<南風>「沈黙」が語る時 - 琉球新報(2020年6月18日)

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75年という年月を経て、初めて語る人たちがいる。沖縄戦の体験とは、人の一生と同等の時間を要さないと語られないものなのか。しかもその背後には、いまだ発せられない沈黙が累々と横たわっている。特異で理解困難と思われる出来事が、沖縄では身近にある。私の最初の聞き取りも、沖縄戦の体験を語らない両親を持つ人だった。

自分がわからないことを尋ねると、何でも答えて解説してくれる父が、戦争体験についてはほとんど話さなかった。戦争をテーマにした番組や映画を一緒に見ていた母に、当時のことを尋ねても「どれも戦争は映し出せないよ」とかたくなに語ろうとしなかった。

だからといって何も伝わっていないわけではない。父は就寝中にうなされることがあった。家族はみんな知っていた。過酷な戦争体験をしたからだろうと思っても、誰も聞かなかった。また父は、体調が悪いにもかかわらず、暑い日差しの中を慰霊祭に出て行った。なぜそこまでするのかを尋ねると、「慰霊祭は沖縄の人のためだけでなく、みんなのためにあるんだよ」と返ってきた。それまで自分は、沖縄だけが犠牲になったのだと思っていた。

両親とも他界した今、沈黙は沈黙のままである。しかしながら、娘が「戦争」というキャンバスの上に、父の言葉や行動の断片、学んだ知識などを描き込んでいく中で、そこに生じた空白(沈黙)を背景から読み取った時、「沈黙」は語る口を与えられる。

娘はそこに、戦争の悲惨さだけでなく、希望を読み取ろうとする。「戦争さえなかったら、人は何でもできる」と言った父の言葉には、「平和であれば、人はいろんな可能性に満ちている」という意味が込められていたのではないか。父は廃虚と化し灰白色になった首里で、生まれてくるわが子に「みどり」と名づけた。
(門野里栄子、大学非常勤講師)