<南風>アイデンティティ - 琉球新報(2020年6月16日)

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どうして時が経(た)って僕は気がついたんだろう。それはきっと、娘がその年齢になったからだ。

1944年8月20日の夜、当時8歳だった私のおばあ・敏子は、「お母さんと離れるのは嫌だ」と尋常じゃないほどに泣いた。あまりに泣きわめく敏子をみかねた敏子の祖母が「こんなに泣いているんだったら敏子を行かすのはよしなさい」と母を説得したおかげで、敏子は疎開しないことになった。そのいきさつをみていた11日前に12歳になったばかりの長女・ツル子も「私もお母さんの元を離れるのは嫌だ」と泣き、つられて10歳の長男・嗣順も泣いた。母・ナへはツル子に、嗣順の面倒をみるようにと諭し、2人はヤマトへ疎開することになった。

対馬丸の話を教えてもらったのは、私が小学校3年生か4年生のときだった。対馬丸の出発前夜に私のおばあが泣きわめいていなかったら、私はこの世に存在していなかった。この世に存在するのか、しないのか。紙一重の差が分かつ生死に、人生の儚(はかな)さと生かされていることへのありがたみをこどもながらに感じた。76年前の選択により私は今生きている。なんて自分は運がいいのだろうと、おばあに対して感謝しかない。生きてるだけでまるもうけとは、まさにそのとおりだと思っている。

36歳になって事の重大さに気づいた。それは私が歳(とし)をとったからだろうか。いや、それは娘が8歳になったからだろう。私の住む那覇新都心にある二つの小学校、その合計生徒数のこどもたちが対馬丸事件で帰らぬ人となった。

戦後75年を迎える今こそ、客観的に歴史を振り返るタイミングなのではないかと思う。東京生まれである私を形成するものは沖縄とバスケットボールだ。それらに恩返しをすると誓いをたて、運命に導かれてこの志事をしている。
(金谷康平、沖縄バスケットボール情報誌アウトナンバー編集長)