2020年代の世界 「人類普遍」を手放さずに - 朝日新聞(2020年1月1日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S14313780.html
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「普遍」とは、時空を超えてあまねく当てはまることをいう。抽象的な言葉ではあるが、これを手がかりに新たな時代の世界を考えてみたい。
国連の「持続可能な開発目標」(SDGs〈エスディージーズ〉)は、17の「普遍的な」目標を掲げている。
たとえば、貧困や飢餓をなくす、質の高い教育を提供する、女性差別を撤廃する、不平等を正す、気候変動とその影響を軽減する、などだ。
2030年までに「我々の世界を変革する」試みである。「誰も置き去りにしない」という精神が、目標の普遍性を端的にあらわす。
15年に採択され、4年が経つが、進み具合は思わしくない。昨年9月、ニューヨークで開かれた初の「SDGサミット」で、国連のグテーレス事務総長は訴えた。「我々は、いるべき場所にほど遠い」。サミットは、この先を「野心的な行動の10年」と位置づける宣言を出した。
目標にどこまで迫ることができるか。それが20年代の世界を見る一つの視点になる。

■リベラルめぐり応酬

人権、人間の尊厳、法の支配、民主主義――。
めざすべき世界像としてSDGsも掲げるこれらの言葉は、西洋近代が打ち立てた普遍的な理念として、今日に生きる。
基本的人権の由来を記した日本国憲法の97条にならえば、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である。
帝国主義や植民地支配といった近代の負の側面を差し引いても、これらが国境を越えた物差しとして果たしてきた役割は、とてつもなく大きい。
たとえば人権保障は、1948年に世界人権宣言が採択され、その後、女性、子ども、性的少数者へと広がっていった。
だが、21世紀も進み、流れがせき止められつつあるかに見える。「普遍離れ」とでもいうべき危うい傾向が、あちこちで観察される。
ロシアのプーチン大統領は昨年6月、移民に厳しく対処するべきだとの立場から、こう述べた。「リベラルの理念は時代遅れになった。それは圧倒的な多数派の利益と対立している」
リベラルという語は多義的だが、ここでは自由や人権、寛容、多様性を尊ぶ姿勢を指す。
発言は波紋を呼んだ。当時のトゥスクEU首脳会議常任議長は「我々はリベラル・デモクラシーを守る。時代遅れなのは権威主義、個人崇拝、寡頭支配だ」と反論した。
自由と民主主義が押し込まれている。
プーチン氏は強権的なナショナリズムを推し進め、米国のトランプ大統領も移民を敵視し、自国第一にこだわる。
欧州では、排外的な右派ポピュリズムが衰えを見せない。
香港で続くデモは、自由という価値をめぐる中国共産党政権との攻防である。
自由民主主義陣営の勝利と称揚された冷戦終結は、決して「歴史の終わり」への一本道ではなかった。

■固有の文化、伝統?

日本はどうか。
「民主主義を奉じ、法の支配を重んじて、人権と、自由を守る」。安倍政権は外交の場面で、言葉だけは普遍的な理念への敬意を示す。
しかし、外向けと内向けでは大違いだ。
国会での論戦を徹底して避け、権力分立の原理をないがしろにする。メディア批判を重ね、報道の自由表現の自由を威圧する。批判者や少数者に対する差別的、攻撃的な扱いをためらわない。
戦前回帰的な歴史観や、排外主義的な外交論も、政権の内外で広く語られる。
旧聞に属するとはいえ、自民党が野党時代の12年に作った改憲草案は象徴的である。
現行憲法がよって立つところの「人類普遍の原理」という文言を、草案は前文から削除してしまった。
代わりに「和を尊び」「美しい国土を守り」などの文言を盛り込んだ。日本の「固有の文化」や「良き伝統」へのこだわりが、前文を彩る。
この草案にせよ、現政権のふるまい方にせよ、「普遍離れ」という点で、世界の憂うべき潮流と軌を一にしていることはまぎれもない。

■予断許さぬ綱引きへ

近代社会を、そして戦後の世界を駆動してきた数々の理念。それを擁護し、ままならない現実を変えていくテコとして使い続けるのか。その値打ちと効き目を忘れ、うかつにも手放してしまうのか。予断を許さない綱引きが20年代を通じ、繰り広げられるだろう。
SDGsはうたう。
「我々は、貧困を終わらせることに成功する最初の世代になりうる。同様に、地球を救う機会を持つ最後の世代にもなるかも知れない」
高く掲げられる理念は、差し迫った眼前の危機を乗り越えるためにこそある。