(筆洗) ただ幸せに暮らしたかった家族の崩壊が悲しい。 - 東京新聞(2019年12月19日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019121902000154.html
https://megalodon.jp/2019-1219-0919-08/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/hissen/CK2019121902000154.html

『転々』などの小説家、藤田宜永さんは母親との折り合いが悪かった。学校の試験でよい点を取ってもほめられたことはない。間違ったところばかり、しつこく責められる。自分は母親から愛されてない。やがて家を飛び出し、亡くなるまでぎくしゃくした関係が続いたそうだ。
母親が八十一歳で亡くなった。葬儀の時、その顔に驚いたと書いている。自分を叱っていたヒステリックな顔ではなく「小さな小さな可愛(かわい)い顔」だったそうだ。心の中で母親に語りかけたという言葉が切ない。「どうして、その顔で僕を育てなかったんだい」
懲役六年。その裁判にお互いの本当の顔を見失った哀れな父親と息子がいるような気がしてならぬ。元農水次官が暴力を振るう長男を刺し殺した事件である。
「殺すぞ」と暴れる息子には父親を尊敬し、自慢さえする一面があったと聞く。父親を思う顔。それがどこかにはあったはずである。
包丁で三十カ所以上を刺した父親は長男の行く末を心配していた。長男の作品をコミックマーケットで売る手伝いまでしていた。そこには「強固な殺意」とは無縁の穏やかな顔があったと信じたい。
本当の顔。それがいつの間にか消え、お互いに見忘れ、ついに父親は長男に怪物の顔を見てしまったか。ただ幸せに暮らしたかった家族の崩壊が悲しい。父親が長男の本当の顔を思い出す日の来ることを願う。