(余録) パキスタン北西部のペシャワルでハンセン病治療と無医村での診療にあたっていた… - 毎日新聞(2019年12月5日)

https://mainichi.jp/articles/20191205/ddm/001/070/096000c
http://web.archive.org/web/20191205002724/https://mainichi.jp/articles/20191205/ddm/001/070/096000c

パキスタン北西部のペシャワルでハンセン病治療と無医村での診療にあたっていた中村哲(なかむら・てつ)さんがさらに奥地に赴いた時である。ある家に呼ばれ乳児を診たが、今夜が峠だと告げるしかない重い病状だった。
だが中村さんが息を楽にする甘いシロップを与えると瀕死(ひんし)の赤ん坊は一瞬ほほえんだ。その夜に亡くなったが、人々が中村さんをたたえたのは「言った通りだった」からだ。そこでは医師は神の定めを伝える者として尊敬されていた。
「死にかけた赤子の一瞬の笑みに感謝する世界がある。シロップ一さじの治療が恵みである世界がある。生きていること自体が与えられた恵みなのだ」。中村さんは書いた。アフガニスタンで大干ばつが始まったのはその後であった。
「人々の暮らしを根底から奪った干ばつで何より命のための水が必要だった」。中村さんがアフガンで井戸を掘り、やがてかんがい事業に取り組んだのはまず人々が「生きること」からすべてを組み立てるべきだとの信念からだった。
約1万6500ヘクタールの土地に水を供給し、65万人の命を保ったこの事業である。その間に同僚の伊藤和也(いとう・かずや)さんが武装グループによって命を奪われた。「暴力は何も解決しない」。中村さんは伊藤さんのかんがいへの献身をそう追悼した。
アフガンの地に暮らす人々の生き方に寄り添って「生きること」を全身全霊で支援した中村さんだった。何よりも平和を求めたその人が暴力に倒れたのは悲しいが、その志は続く人々のともしびであり続けよう。