https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019112602000149.html
https://megalodon.jp/2019-1126-0911-53/https://www.tokyo-np.co.jp:443/article/column/hissen/CK2019112602000149.html
二つの国から飛び立った飛行機は
同時刻に敵国上へ原子爆弾を落(おと)しました
詩人の石垣りんさんに「戦闘開始」と、はじまる詩がある。
楽しい童話ではない。恐ろしい童話である。こう続く。二つの国は壊滅し、世界中で生き残ったのは二機の乗組員だけ。
彼らがどんなにかなしく
またむつまじく暮(くら)したか-
人は殺し合いの果てにしか、その愚に気づかず、<むつまじく>暮らせないのか。
「戦闘開始」や核兵器使用の後では遅いのだとおっしゃっていたように受け止めた。長崎と広島を訪問したフランシスコ・ローマ教皇の核廃絶の訴えである。
「核兵器のない世界は可能だ」。過去、どれだけ多くの人がそう訴え、祈っただろう。それでも核兵器は消えなかった。核廃絶に向け、一致団結せよという教皇の言葉が今度こそ本物の「歴史的メッセージ」になることを願う。
核兵器は人が望む平和と安定への「答えではない」。その言葉に不意をつかれた気になる。教皇の主張は核の抑止力や核の傘を唯一、現実的な平和の答えと信じ込み、別の答えをあきらめかけた人類の怠惰に対する叱咤(しった)であろう。
核を使えば、攻撃された方も使う。だからお互いに核を使うまい。恐怖の脂汗を流した、その核抑止論とは平和とはいえぬ、かりそめの均衡にすぎまい。核のない平和を間に合わせたい。<飛行機>が飛び立つ前に。