首里城全焼 失った宝の大きさよ - 朝日新聞(2019年11月1日)

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琉球王国から続く沖縄の歴史と文化を伝える象徴が、炎に包まれ、焼け落ちた。
本土の住人にとっても、胸を締めつけられるような光景だった。沖縄県民が受けた衝撃と悲嘆は計り知れない。
那覇市の高台にたつ首里城できのう未明、火災があり、正殿、北殿、南殿・番所など7棟が焼けた。イベントの準備が直前まで行われていたが、火気を使うことはなかったという。
出火原因の究明が待たれる。文化庁も調査官を現地に派遣した。防火体制や消火設備の作動状況を検証し、今後の文化財保護行政にいかしてほしい。
首里城は15世紀に成立した統一王国の王家・尚(しょう)氏の居城だった。17世紀はじめに薩摩藩支配下に入ったが、明や清への朝貢を続け、東南アジアとの交易でも栄えた。正殿は国王の政務や儀式を執り行う場、北殿は中国使節をもてなす場。いっぽう南殿は日本風の仕様で造られ、こうした文化的多様性が沖縄の特色であり魅力だった。
明治政府による琉球処分で王国は滅亡し、首里城も政府の手に移る。第2次大戦時には軍司令部が置かれ、米軍の艦砲射撃と激烈な地上戦で城は焼失。一帯では多くの人命が失われた。

 戦後、県民は首里城の再建を望み続けた。戦禍によって資料も、資材も、技術をもつ宮大工もなくしたなか、復元作業に取り組み、政府にも働きかけた。悲願は復帰20年の1992年にようやくかなう。国の事業で各建物とともに首里城公園が整備された。00年には本島内の他の城跡とあわせ、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産への登録を果たした。
明治以降、沖縄では本土への同化政策が強力に推し進められ、ことばを含め、独自の文化や慣習は否定された。そんな苦難の道を歩んだ沖縄にあって、首里城の再建は、郷土の歴史と沖縄の主体性を取りもどす一大プロジェクトであり、沖縄学や沖縄史研究の進展と軌を一にするものだった。
本土の側にとっても、いま日本を形づくっている地域が決してひと色ではなく、多様で豊かな要素からできていることを、目に見える形で教えてくれる貴重な宝を失ったことになる。
官房長官は会見で、「再建に向けて、政府として全力で取り組んでいきたい」と述べた。建物本体や調度品の部材の調達などで困難も予想されるが、県や研究者、技術者らと連携を取りながら、着実に歩を進めてもらいたい。
県の重要産業である観光への影響も心配だ。そちらへの目配りも怠らず、県民を物心両面で支える必要がある。