(余録) 教師間の常軌を逸した集団いじめ事件には… - 毎日新聞(2019年10月17日)

https://mainichi.jp/articles/20191017/ddm/001/070/124000c
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教師間の常軌を逸した集団いじめ事件には誰もが絶句するが、同じ神戸市立の小中学校30校で、運動会の組み体操の練習中、8月末から1カ月余りで計51人がけがをしていたニュースにも驚く。うち6人は骨折だった。
昨年度までの3年間で骨折事故123件というから深刻だ。市長の中止要請にもかかわらず、市教育委員会が「すでに練習している」と応じず、自主的中止は一部にとどまり、市長が「やめる勇気を」と呼びかけたというので、また驚く。
教育関係者によると、保護者が見栄えのする「出し物」を喜び、評価する風潮が高じて、教師側も期待に応えようと無理をする傾向に拍車がかかっているらしい。だとしても、それに待ったをかけない市教委とは何のためにあるのか。
来年から体育の日は、スポーツの日に改まる。体育とスポーツは別ものだ。体育は学校や軍隊での身体教育の略。一方、スポーツの語源、ラテン語のデポルターレは、労働を離れた遊びや余暇を意味した。釣りも囲碁もスポーツである。
体育は軍国教育の名残で強制の文化が根強い。各競技で体罰問題が噴出し、東京五輪パラリンピックを機に「楽しみ、互いを尊重する」本来のスポーツ文化に立ち返る趣旨が名称変更には込められている。
オランダの歴史家ホイジンガは「人間活動の本質は遊びであり、文化は遊びとして成立し、発展した」と論証した。近代社会が功利主義に覆われ、スポーツが遊びの領域から去っていく現象を文明の衰退と警告している。