東電旧経営陣に無罪 「人災」の疑問は残る - 東京新聞(2019年9月20日)

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東京電力の旧経営陣は「無罪」-二〇一一年の福島第一原発事故検察審査会が強制起訴した裁判だった。本当に予想外の事故だったのか疑問は残る。
事故の三年前まで時計の針を戻してみよう。国の地震予測である「長期評価」に基づく津波の試算が最大一五・七メートルにのぼるとの報告がなされた。東電社内の会合で元副社長に「『(津波想定の)水位を下げられないか』と言われた」-担当していた社員は法廷で驚くべき証言をした。元副社長は否定し、「そもそも長期評価は信頼できない」と反論した。

◆「力が抜けた」と証言
社員は「津波対策を検討して報告するよう指示された」とも述べた。だから、その後、防潮堤を造る場合は完成までに四年を要し、建設に数百億円かかるとの報告をしている。元副社長は「外部機関に長期評価の信頼性を検討してもらおう。『研究しよう』と言った」と法廷で応じている。
てっきり対策を進める方向と思っていた社員は「想定外の結論に力が抜けた」とまで証言した。外部機関への依頼は、対策の先送りだと感じたのだろう。実際に巨大津波の予測に何の対策も講じないまま、東電は原発事故を引き起こしたのである。
この社員は「時間稼ぎだったかもしれないと思う」「対策工事をしない方向になるとは思わなかった」とも証言している。
社員が認識した危険性がなぜ経営陣に伝わらなかったのか。あるいは対策の先送りだったのか。これはぬぐえぬ疑問である。
旧経営陣の業務上過失致死傷罪の責任を問うには(1)原発事故との因果関係(2)大津波などが予見できたかどうか(3)安全対策など結果回避義務を果たせたか-この三点がポイントになる。

電源喪失予測もあった
東京地裁は争点の(2)は「敷地高さを超える津波来襲の予見可能性が必要」とした。(3)は「結果回避は原発の運転停止に尽きるが、原発は社会的有用性があり、運転停止だと社会に影響を与える」ため、当時の知見、社会通念などを考慮しての判断だとする。
原発ありきの発想に立った判決ではないか。「あらゆる自然現象の想定は不可能を強いる」とも述べたが、それなら災害列島に原発など無理なはずである。
宮城県に立地する東北電力女川原発との違いも指摘したい。女川原発が海抜一五メートルの高台に建てられたのは、八六九年の貞観地震を踏まえている。だから東日本大震災でも大事には至らなかった。
〇八年の地震予測「長期評価」が出たときも、東北電力津波想定の見直しを進めていた。ところが、この動きに対し、東電は東北電力に電子メールを送り、津波対策を見直す報告書を書き換えるように圧力をかけた。両社のやりとりは公判で明らかにされた。
「危険の芽からは目をそらすな」-それは原発の事業者にとって常識であるはずだ。旧ソ連チェルノブイリ事故が示すように、原発でいったん事故が起きれば被害は極めて甚大であり、その影響も長期に及んでしまう。
それゆえ原発の事業者は安全性の確保に極めて高度な注意義務を負う。最高裁四国電力伊方原発訴訟判決でも「(原発の)災害が万が一にも起きないように」と確認されていることだ。
「最大一五・七メートルの大津波」という重要なサインが活(い)かされなかったことが悔やまれる。〇四年にはスマトラ沖地震津波があり、インドの原発で非常用海水ポンプが水没し運転不能になった。〇五年の宮城県沖地震では女川原発で基準を超える地震動が発生した。
これを踏まえ、〇六年には旧経済産業省原子力安全・保安院と電力会社による勉強会があった。そのとき福島第一原発に敷地高一メートルを超える津波が来襲した場合、全電源喪失から炉心損傷に至る危険性が示されている。
勉強会が活かされたらとも悔やむ。防潮堤が間に合わなくとも電源車を高台に配備するなど過酷事故対策が考えられるからだ。福島第一原発の非常用電源は地下にあり、水没は容易に発想できた。国会事故調査委員会では「明らかな人災」と厳しく非難している。
今回の刑事裁判は検察が東電に家宅捜索さえ行わず、不起訴としたため、市民の検察審査会が二度にわたり「起訴すべきだ」と議決したことによる。三十七回の公判でさまざまな事実関係が浮かんだ意義は大きい。

地震の歴史は繰り返す
安全神話が崩れた今、国の原発政策に対する国民の目は厳しい。歴史は繰り返す。地震の歴史も繰り返す。重大なサイン見落としによる過酷事故は、やはり「人災」にも等しい。繰り返してならぬ。苦い教訓である。