相模原事件3年 本質を問い続けなくては - 信濃毎日新聞(2019年7月26日)

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190726/KT190725ETI090014000.php
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亡くなった一人一人はどんな人だったのだろう。何に喜び、時には怒り、日々を過ごしていたのか。施設の元職員の男はなぜ、殺害を正当化する考えにとらわれていったのか。事件の輪郭は今もおぼろなままだ。
相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が殺傷された事件から3年が過ぎた。追悼式は今年も、犠牲になった19人の名前を伏せ、遺影も掲げなかった。殺人などで起訴された男の裁判員裁判は来年1月に初公判がある。
心失者―。心を失った者。重い障害で意思表示ができない人を男はそう決めつけた。殺すのは日本と世界のためだ、と。国家や社会の役に立たないとみなした人間を選別し排除する優生思想そのものだ。社会に潜む差別意識がおぞましい形で現れた事件である。
どうすれば乗り越えられるのか。社会のあり方を問い直すとともに、それぞれが自分自身に向き合って考えることが欠かせない。時とともに事件を風化させてはならないとあらためて思う。
優生保護法の下で障害者らが不妊手術を強いられた被害に広く社会の目が向いたのは事件後だ。旧法の改定から20年余を経てようやく救済法が成立した。とはいえ国の責任は曖昧なままだ。形だけの救済でふたをすれば、優生思想の克服につながりようがない。
当事者が国に賠償を求めた訴訟でも、裁判所は旧法を違憲と断じながら、国が救済立法を怠ってきた責任を認めず、賠償請求を退けた。司法も被害者の尊厳を回復する責務を果たしていない。
人間を選別し排除する主張は至るところにはびこる。在日韓国・朝鮮人への差別をあおるヘイトスピーチは依然やまない。自民党衆院議員は、性的少数者は「生産性がない」と雑誌に寄稿した。
引きこもりの息子が周囲に危害を加えることを恐れた父親に殺された東京・練馬の事件では、加害者の父親を称賛する声さえ上がった。それもまた相模原の事件と底流でつながっている。
亡くなった人たちの生きた証しを社会がいまだに共有できずにいることは、差別や偏見の根深さを映し出す。それが障害者を遠ざけ、施設でしか暮らせない状況を生んできたことも見落とせない。
地域で暮らすことは本来、誰にも保障されるべき権利だ。重い知的障害があっても、介助を受けながら1人で暮らす人も出てきた。当事者とそれを支える人たちの地道な積み重ねに目を向け、現状を変えていく手がかりにしたい。