(余録) 「お父さんが/お前にあげたいものは/健康と/自分を愛する心だ… - 毎日新聞(2019年6月5日)

https://mainichi.jp/articles/20190605/ddm/001/070/153000c
http://archive.today/2019.06.05-001304/https://mainichi.jp/articles/20190605/ddm/001/070/153000c

「お父さんが/お前にあげたいものは/健康と/自分を愛する心だ。/ひとが/ひとでなくなるのは/自分を愛することをやめるときだ……(その時)ひとは/他人を愛することを
やめ/世界を見失ってしまう」
詩人・吉野弘(よしの・ひろし)は「奈々子に」で、誕生した長女に呼びかけた。詩はお前に多くを期待しないともいう。期待に応えようとして人は駄目になるからだ。望むのは「
かちとるにむづかしく/はぐくむにむづかしい/自分を愛する心」だった。
父親の思いが「重荷」だったというのは当の久保田奈々子(くぼた・ななこ)さんである。「自分を愛する心」を見つけるまで長い時間がかかったが、自分が子を持ってこの詩を読
み涙が止まらなくなったという(妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」)
人は自分を愛せなくなれば、他人や世界も意味を失い、道徳も倫理も底が抜ける。そんな無残さに慄然(りつぜん)とした川崎の20人殺傷だった。今度はこの惨事に衝撃を受けた
父親がわが子を手にかけたと供述しているやりきれない事件である。
東京で家庭内暴力をくり返していた44歳の長男を刺殺したとされる元農林水産事務次官の76歳の父親である。長男は近くの学校の運動会に「うるさい、ぶっ殺すぞ」と口走り、
父親は児童たちに危害を与える恐れを感じたというのだ。
殺害が許されるはずもないが、長男も自分を愛する心を見失って家庭内暴力の迷路に陥ったのか。それは「かちとる」のも「はぐくむ」のもむづかしい。そううたった詩人の言葉を
かみしめた1週間だった。