教育の国家統制 脅かされる「個人の尊厳」 - 信濃毎日新聞(2019年5月5日)

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190505/KT190429ETI090014000.php
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われらはさきに日本国憲法を確定した。その理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである―。戦後の1947年、教育基本法憲法と相前後して施行された。前文のこの文言は両者が一体のものだったことを示す。
60年近くを経た2006年。第1次安倍政権の下で教育基本法は全面改定された。前文の文言は跡形をとどめない。教育の目的を掲げた1条からは「個人の価値をたっとび」「自主的精神に充(み)ちた」の言葉が消えた。

<先触れは80年代に>

一方で、教育の目標を新たに定めた2条には「公共の精神に基づき」「わが国と郷土を愛する」といった項目が並ぶ。個人の価値に対して国家や規範を前面に立て、教育のあり方を根本から転換しようとする法改定だった。
教育は「国民全体に直接責任を負って」行われるとした条文が「法律の定めるところにより」に改められたことも見過ごせない。戦争に国民を動員する役割を担った反省を踏まえ、何より重んじられるべき教育の独立を脅かす。
憲法と不可分の教育基本法の改定は、安倍晋三首相や中曽根康弘元首相ら自民党改憲派の宿願だった。先触れとなる動きが目に留まるのは80年代からだ。
中曽根政権下、臨時教育審議会が「徳育の充実」を提言したのは86年。昭和から平成に代わった89年の学習指導要領の改定では、入学式や卒業式で、日の丸の掲揚と君が代の斉唱を「指導するものとする」と明記された。
99年に国旗国歌法ができて現場への締めつけは一段と強まり、起立や斉唱を拒んだ教員が大量に処分される事態につながっていく。職務命令を盾に有無を言わせず従わせようとするやり方は、思想・信条の自由を押しつぶした。

<「教化」の基盤整い>

そして教育基本法が改定され、規範や価値を強要する「教化」の体制が基盤を整えたと東京大教授の本田由紀さん(教育社会学)は指摘する(吉見俊哉編「平成史講義」)。統制の色を帯びた動きは12年末に再び政権に就いた安倍首相の下で目に見えて強まった。
首相直属の教育再生実行会議が道徳の教科化を提言したのは、政権発足から2カ月後だ。矢継ぎ早に事は進み、中教審の答申を経て道徳は教科外の活動から「特別の教科」に格上げされた。
「自由と責任」「規則の尊重」「家族愛」「国や郷土を愛する態度」…。扱う内容として指導要領が列挙した項目である。
教科化は子どもの評価を伴う。「考え、議論する道徳」を掲げてはいても、あらかじめ決められた方向へ誘導されていく懸念は消えない。公権力が個人の心の内に踏み入る危うさをはらむ。
軌を一にして進むのが、教育勅語復権を図る動きだ。戦前、「臣民」の心得として、現在の道徳にあたる「修身」の柱とされた。親に孝行せよといった「徳目」は全て、天皇と国のために命をささげよという一文に通じる。
個人の尊重を核に置く現憲法と根本的に相いれない。安倍政権は教材に用いることを認める答弁書閣議決定したが、歴史の資料として負の教訓を学ぶ以外、学校で使う余地は見いだせない。
社会科教科書にも統制の色は濃い。政府見解に基づいて記述するよう検定基準を改め、国定にさらに近づいた。指針となる指導要領解説書は、尖閣諸島竹島を「固有の領土」とする日本の立場を正当と教えるよう記載した。
日の丸、君が代は幼稚園や保育所でも「親しむ」ものとされ、文部科学省は国立大学に対しても入学式や卒業式での掲揚と斉唱を要請した。公教育はあらゆる段階で国家に囲い込まれつつある。

<足元に目を凝らし>

教育に関する政府の本来の役割は、学ぶ権利を保障するための基盤や条件を整えることにある。教える内容への関与は、できる限り抑制的でなければならない。
学習指導要領は大枠の基準を示すべきものだ。それを超えた介入を正当化する根拠にはならない。にもかかわらず、絶対的な拘束力を持つかのように現場を縛り、教育を窮屈にしている。
学校は文科省の指揮命令に服する末端の機関ではない。目の前の子どもと向き合い、実際に教育を担うのは教員と学校である。自主性が最大限尊重され、現場で多様な実践を積み上げることこそが教育を豊かにする。後押しする地域の力も欠かせない。
教育の統制は国民の思想統制ともひとつながりだ。権力者の意思に従順な子どもを育てることが、全体主義に道をひらくことを歴史は教えている。
子どもを政治権力による教化の対象にしてはならない。教育は個の自立を支えるためにある。その土台が掘り崩されている現状をどうやって変えていくか。足元に目を凝らして考えたい。