(余録)「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」。三島由紀夫の自死の直後… - 毎日新聞(2019年2月26日)

https://mainichi.jp/articles/20190226/ddm/001/070/120000c
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「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫(みしまゆきお)になりました」。三島由紀夫自死の直後、ドナルド・キーンさんは遺書を受け取った。生前の三島とは「奇院」「未死魔幽鬼尾」と当て字を使い合う仲だった。
三島は遺作「豊(ほう)饒(じょう)の海」の最終章を自死の当日に日付を入れて編集者に渡している。遺書には文士よりも武士として死にたいとあったが、キーンさんはその夏の出来事を思い出した。実はもう書き上げていた最終章を見せられたのだ。
「一息に書いた」と三島は原稿を手渡したが、キーンさんは最終章の先読みはしないと目を通さなかった。遺書は「豊饒の海」の海外での出版を懇請しており、キーンさんは三島が「ただ侍(さむらい)として死ぬのは不可能だった」と回想する。
三島由紀夫谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)、川端康成(かわばた・やすなり)、安部公房(あべ・こうぼう)、司馬遼太郎(しば・りょうたろう)……。戦後文壇の巨星らと親交を結び、世界に紹介したキーンさんである。その訳業なしに、今のように日本文学が世界の文学シーンに組み入れられることはなかったろう。
残酷な戦争の時代、若きキーンさんは49セントで買った「源氏物語」の英訳本で日本の王朝文学に魅入られた。日本語教育を受けた海軍では日本兵の日記の解読で生身の日本人を知る。戦争への嫌悪が選んだ魂の避難所は日本文学だった。
東日本大震災後に国籍取得した日本の通称「鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)」も三島との当て字合戦の副産物か。長い旅を終えた永眠の地は黄色い犬=「黄犬(キーン)」のイラストのある東京都内のお墓で、季節には乱れ咲く八重桜の下という。