黙認は罪か 必要なのは逮捕でなく保護ではないか - 47NEWS(2019年2月5日)

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母親はなぜ逮捕されたのか。
千葉県野田市の栗原心愛(みあ)さんが浴室で死亡した事件で、父親の勇一郎容疑者に続き、千葉県警が傷害罪で母親のなぎさ容疑者を逮捕した。
共同通信の配信記事によれば、母親の逮捕容疑は「勇一郎容疑者と共謀し、24日午前10時ごろから午後11時10分ごろ、自宅で冷水シャワーを掛けたほか、首付近をわしづかみにしたり、髪を引っ張ったりして擦り傷を負わせた疑い」。
これだけ読めば「冷水シャワー」などの暴行を夫婦で計画し、寄ってたかって実行したかのようだが、事実は違うらしい。その後に続く部分に「県警は、なぎさ容疑者が勇一郎容疑者を制止せず、黙認していたとみて詳しい状況を調べる」とある。
2月4日の読売新聞夕刊は端的にこう指摘する。「県警は、暴行を把握しながら止めなかったことで共犯関係が成立するとして、逮捕に踏み切った」「なぎさ容疑者が直接、心愛さんに暴行を加えた形跡はないものの、県警は、勇一郎容疑者を制止しなかった責任は重いと判断した」
つまり「虐待を止めなかった責任」が問われた。だが、それは妥当なのか。これまでの報道をもとに、いったん立ち止まって考えたい。
黙認はいいことではない。しかし、悪事を黙認・黙過することは誰にでもあると思う。
例えば、路上喫煙禁止区域で歩き煙草をしている人を見かけても、なかなか注意できない。血を流してけんかをしている現場に出くわしても、止めに入るのは難しい。ネットでヘイト表現に出会ってひどいと思い、傷つく人がいると分かっていても、多くの人は何もできない。もちろん、私もその一人だ。
社会人としてどうなのか、人間としてそれでいいのかといった批判は受けるかもしれない。しかし、それだけで刑法上の罪に問われるということはない。黙認(不作為)が罪になるのは、特別な場合に限られる。
共謀したが実行行為に加担しなかった者に、実行行為者と同等か、それ以上に重い責任を問う刑法理論として「共謀共同正犯」がある。首謀者が罪を免れたり、軽い罪になってしまったりする不条理を回避するための理論で、日本では最高裁も認めている。千葉県警はその理論を適用したと思われる。
しかし、心愛さんの事件で両親の「共謀」があったと評価する余地があるだろうか。共謀は読んで字のごとく「共に(悪事を)はかる、たくらむ」ことだ。有斐閣法律用語辞典第4版には「数人が共同して犯罪を遂行する合意を形成することまたはその結果成立した合意」とある。今回の事件なら、共同して心愛さんに傷を負わせる合意がなければならない。
黙認は共謀とは明らかに異なる。関与は薄く、共同意思の形成に不可欠な相互性を欠く。
この事件で相互性があり得るとしたら、「お前は駄っていろ」という明示または黙示の強制がある場合で、その強制からの離脱の自由があったのかが検討されなければならない。
そこで実態的に、母親がどれほど夫から自由だったのかをみる。
一家が沖縄県糸満市に住んでいたころ、母親がDVを受けていたという有力な情報がある。心愛さんも野田市の小学校に転校後のアンケートにそう書いている。心愛さんを一時保護した柏児童相談所も把握していたという。
野田市に転居後、どこかの時点で暴力の対象が娘だけになったのかもしれないが、そうだとすれば、夫による妻の心の支配は完了していたのだろう。暴力と恐怖によって支配されたDV被害者にも、自由意思による共謀があり得ると考えるのは、あまりに想像力や知識を欠いている。
食事を与えていなかったという報道もあるが、それは母親だけの責任ではないし、与えることを禁じられていた可能性もある。逮捕後に小出しにされている虐待関与の情報は、幇助とみるのがせいぜいではないか。
だが、捜査手法に疑問を呈する声はあまり多くないようだ。なぜか。
このケースに即して考えれば、心愛さんに対する世間の圧倒的な同情があるだろう。当否は別として、それが裏返しの感情となって、児相や教委・学校だけでなく母親にも向かった。
その思いは「どうして守ってやらなかったのか」「どうして子どもを連れて逃げなかったのか」「最も身近にいる母親が守らなくて誰が守るのか」といった社会感情に収れんし、捜査の適正を問う力を弱めている。
だが、そういう非難は刑法上の罪とは異なる次元にある。
ここからは臆測になる。事件に至るまで、父親は児童相談所の聴取をはね返し、学校・市教委には強圧的にねじ込んで勝利した。逮捕後は頑強に否認している。「しつけのつもりで、悪いことをしたとは思っていない」と供述しているという。
厚い否認の壁を崩すには証拠を積み上げるしかない。そのとき頭に浮かんだのが、一番間近で彼の行為を見続けてきた母親だったのではないか。夫が支配し続けた日常空間から彼女を切り離し、心の支配からの離脱を促せば、暴力の全貌を語ってもらえる。
だが、それは捜査の手法として邪道だ。
母親は娘を守ろうとして守れなかった。自らを強く責め、悔いているに違いない。自分も夫と同罪だと思っているだろう。暴力が支配する空間にさらされ続けた心愛さんの妹も心配だ。
いま必要なのは、強制的な身柄の拘束ではなく、母子の心身の回復のために、保護することだ。刑事事件の被疑者としての捜査はそれからでも遅くない。(47NEWS編集部、佐々木央)