戦争を撮る 平和のために がんと闘いながら映画製作続ける大林宣彦監督 - 東京新聞(2019年2月7日)

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がんと闘いながら映画製作を続ける大林宣彦監督(81)が大分市で開かれた日本劇作家大会に登場し、おいの劇作家、平田オリザ(56)と対談した。半生を語る中、平和への強い思いをにじませた大林監督は近年、戦争をテーマにした作品を手掛けている。自身を「自ら平和をつくる大人として生まれた世代」と強い使命感を語った。 (酒井健
大林監督は、故郷の広島県尾道市を舞台にした「転校生」などの“尾道三部作”で知られる。現在編集作業中という新作「海辺の映画館-キネマの玉手箱」も尾道で「戦争と原爆」をテーマに撮影し、来年春ごろの公開を予定している。
大林監督が若き日に、平田の父でシナリオライターだった穂生(さきお)と映画を撮ったこともあることから、劇作家陣からの強い要望も受け、対談が実現した。
対談で大林監督は、敬愛する小津安二郎監督(1903~63年)の足跡を紹介。「戦意高揚映画を撮れと言われて東南アジアへ行ったが、1カットも撮らずに帰ってきた。それが国家への唯一の抵抗だった。これが先輩の姿。その薫陶を受け、私はここにいる」と述懐。小津監督を「米映画のまねはせず『日本の豆腐の味を作る』と言って、カメラがぴたっと止まったままの静かな映画を撮った。それを世界が発見し今、世界の小津がいる」とも振り返った。
映画や芸術に興味を持ったのは戦時中。「実家の蔵の中で見つけた二つの宝物」がきっかけだという。一つは金属部品が軍に供出され音が鳴らなくなったピアノ。戦後、軍医だった父が戻り、譲り受けた中古ピアノを「昼間に窓を開けて弾いた」と終戦直後の解放感を語った。もう一つが父が愛用していた活動写真の映写機。その父は、大林監督が医師を継がず映画を志して上京する際、「好きな道を行きなさい」と8ミリカメラを持たせてくれた。
「1日に10人は、顔や名前を知っている人が死んだ知らせを聞いて育った」と話す大林監督は作品で平和を問い掛ける。憲法9条を評価し「(憲法が)押しつけられたか自分で作ったか、そんなことを言っても仕方がない。売り渡してはいけない」と強調した。改憲の動きを踏まえ「負けたことから学ばず、あの戦争さえなかったことにしてしまうのがこの国の正体。小津さんは、断念と覚悟をへて再生した」と警告した。
映画の役割を「過去の歴史を戻すことはできない。しかし、未来を変える力はある」と強調。「過去から学んで未来を願い、いま何をするか。自分に正直に一生懸命生き、過去がこうだから、未来がこうだろうと考え、そのために全力を尽くす。アートをやる唯一の方法だと思う」と力強く語った。

◆「とんでもない死に方はしねえぞ」
大林監督は対談終了後、報道陣の取材に、自身の体調について「がんなんですが、もうほとんどない」と説明した。「(がんを)意識したことは一度もない。老いて死ぬのは平和でよいけれど、がんで死ぬのはとんでもないこと。とんでもない死に方はしねえぞと決めている」と力強く語った。