安田講堂事件50年 - 東京新聞(2019年1月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019012002000114.html
https://megalodon.jp/2019-0120-1003-42/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019012002000114.html

東大の学生らが本郷キャンパス安田講堂を占拠した「安田講堂事件」は、一九六九年一月に警視庁の機動隊が突入して封鎖を解除してから十九日で五十年となった。赤い旗が掲げられた日本を代表する最高学府のシンボルは、機動隊の撃ち込む催涙弾や放水の水煙、学生側の火炎瓶の煙でかすんだ。頭上から降り注ぐ投石をくぐり抜けて講堂内に入った元機動隊員は当時の状況を鮮明に記憶し、民主的な大学運営を求めた元学生は権威にあらがうことの重要性を訴え続けている。
◆元学生 「権力へ異議」信念貫く 
安田講堂事件では、東大の学生だけでなく他大学の学生らも占拠に加わり、激しい抵抗を続けた。その胸には、封鎖が解除されてから五十年を経てもなお、自らの行動への信念や思いが浮かんでくる。
東大で物理学を研究する大学院生だった田尾陽一さん(77)=福島県飯舘村=は、安田講堂に立てこもった。きっかけは、医学部生の改革運動を巡って大学が学生を処分した際、無関係の人物を含んでいたことだった。非を認めない大学の姿勢に憤慨。寒さと催涙弾のガスによる目の痛みに耐えたのは「真実を見ない東大当局の権力に異議を申し立てる戦いだったから」。
研究者の夢を諦めたが、後悔はない。現在はNPO法人の理事長として、東京電力福島第一原発事故で被害を受けた村の再生を目指す。「原発事故でも権力者は責任を取っていない。五十年前の東大と何も変わっていない」
東北大二年だった須永貴男さん(71)=群馬県伊勢崎市=は、仙台市から東大へ駆け付けた。安田講堂とは別の建物に籠城したが、機動隊との攻防初日に封鎖が解かれて連行された。「間違ったことをしたとは思わないが、あれで世の中が変わったとは思わない。ただ、何かを変えたければ運動を起こすしかないことは分かった」と振り返り、今は労働組合の活動に従事している。
◆元機動隊員 火炎瓶や石、雨のよう
「火炎瓶や石が雨のように降り、講堂前は火の海になっていた」。半世紀前の一九六九年一月、警視庁第五機動隊の巡査部長として安田講堂に突入した伊佐治功雄さん(77)。今も当時の状況を克明に思い出せるという。
伊佐治さんは一月十八日、騒乱状態だった近くの神田地区から東大へ転戦してきた。学生らは講堂にバリケードを築き、火炎瓶や石を次々と投げつけてきて、なかなか接近することができない。機動隊は火を放水で消し、催涙弾を撃ち込みながら、火炎瓶などを使い切らせる戦術を取った。
効果が出たのか、翌日には飛んでくる火炎瓶などが減ったように感じた。ジュラルミン製の盾を屋根にしたトンネル状の進路も完成。正面玄関から一気に突入すると、積み上げられた机や椅子に阻まれる。隙間からは学生らが棒を突き出して抵抗してきた。
たどり着いた外階段の踊り場に、はしごを掛けて駆け上がると、屋上は催涙弾の粉と水で真っ白に見えた。時計台の近くに数十人の学生の姿があった。火炎瓶は残っておらず、反撃の様子はなかった。
後続の隊員のため滑り止めの毛布を並べて道を作り、学生に近づいた。労働歌のインターナショナルを歌っており、「あれだけ暴れた連中とは思えず、覚悟を決めているようだった」。学生の身柄を確保し、まもなく安田講堂の封鎖解除は完了した。
「一歩間違えば、この世にはいなかった」と語る伊佐治さん。消し去ることができない疑問がある。「学生を高揚させ、駆り立てたものは何だったのか」

安田講堂事件> 1968年1月、東大医学部生が無給研修医制度への反対ストを始めた。大学が「医局員を軟禁して交渉した」として学生を処分したが、1人がその場にいなかったことが判明。7月以降、大学と対立した学生が安田講堂を占拠した。医学部以外にも波及し、東大闘争全学共闘会議全共闘)が結成され、大学運営の民主化などが争われた。大学当局の要請を受けた警視庁機動隊が、69年1月18、19日に安田講堂などから学生らを排除して封鎖を解除した。一連の紛争の影響で同年の入試は中止された。