梅原猛さん死去 懐疑が生んだ日本学 原点に戦争体験 - 東京新聞(2019年1月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019011402000114.html
https://megalodon.jp/2019-0114-0928-34/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019011402000114.html

梅原猛さんの原作で大ヒットしたスーパー歌舞伎ヤマトタケル」の中に、印象深い場面がある。熊襲(くまそ)を討伐して都に戻ったヤマトタケルは、父である帝(みかど)に、すぐに東国の蝦夷を平定するよう命じられる。そして、叔母のヤマトヒメに「帝が、父上が、全く信じられなくなりました。父上は、私が早く死ぬことをお望みです」と無念の言葉を吐くのである。
このせりふには、先の大戦で召集され、特攻など無謀な作戦で多くの友人を失った作者自身の怒りが重ねられている。権威に反逆し、定説を否定することによって形成された「梅原日本学」は、理不尽な戦争体験から生まれた懐疑が原点だった。
西洋哲学から日本文化論に移った梅原さんは、あまりに宗教に無知だとして、鈴木大拙和辻哲郎丸山真男ら当時の権威者たちを次々に批判。それを契機に書き上げたのが「地獄の思想」であり、「神々の流竄(るざん)」「隠された十字架」「水底の歌」の古代三部作だった。
現在の法隆寺は、一族を惨殺された聖徳太子の怨霊鎮魂のために建立されたと結論づけたのが「隠された十字架」。「水底の歌」では、定説の前提になる賀茂真淵の柿本人麿論を徹底的に批判。そこには日本を破滅させた偏狭なナショナリズムにつながる国学の偏見から日本の古代学を解放しようとする強い思い入れがあった。
梅原さんはソクラテスの言葉を引いて、哲学は「愛知」の学であり、真の知識を求めてさまよい歩くことだと、よく語っていた。であるならば、哲学者が古代史や国文学の研究に打ち込んでも何も矛盾はない。
二〇一〇年には、近年の考古学の成果を踏まえて、ヤマト王朝の前にスサノオを開祖とする出雲王朝が存在したと説く「葬られた王朝」を刊行。「神々の流竄」で、出雲神話は大和に伝わった神話が、ある政治的意図によって出雲に置き換えられたもの、と論じていた自説を否定した。
「自分が築きあげた学説を否定するのは大変つらいことですが、誤りに気づいた以上は改めなければなりません」。出雲へ現地調査に向かうとき、きっぱりと話していたのを思い出す。スケールの大きな「愛知」の人であった。 (編集委員後藤喜一