デニーさんが沖縄県知事になると(finalvent) - ポリタス 『沖縄県知事選2018』から考える finalvent (ブロガー)(2018年9月27日)

http://politas.jp/features/14/article/615

デニーさんという人は信頼できる
私が今も沖縄県民だったら、今回の沖縄県知事選挙ではためらうことなく、玉城デニー候補(58)に投票するだろう。理由はとても単純である。私は彼、「デニーさん」と直接話したことがある。彼の、笑みを絶やさぬ穏やかで優しい語り方から、その人柄に感銘したからである。この人は信頼できると思った。そして、米兵を父に持ち、コザ暴動の時代も体感しただろうこの人は、沖縄というものを知っていると確信した。
米兵を父に持ち、コザ暴動の時代も体感しただろうこの人は、沖縄というものを知っている
それは1996年、地位協定と米軍基地縮小をめぐる県民投票が迫るころ。私も沖縄県民だった。沖縄本島中部のコザに拠点を置くコミュニケーションFMラジオ局、FMチャンプラの夜の生特番に、ちょうどその年に大阪から沖縄に移住してきた沖縄人二世の仲村清司さんと一緒に呼ばれた。2年ほど前に「ウチナー婿(沖縄県民の妻を持つ本土人婿)」となって沖縄タイムスにコラムなど書いていた私たちは、新沖縄県民という感じのポジションである。その打ち合わせで同局の運営に関わるデニーさんと話したのだった。

すでに私は、デニーさんについて、琉球放送ラジオの人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティとしてその声になじんでいたので、会ったときは、「わー、デニーさんの本物」と感慨深かった。あの生特番はコザの祭りとも言える夜だった。てるりんこと照屋林助もいた。白ずくめの巨漢だった。伝説のロックバンド紫のメンバーもいた。私はコザという街のエネルギーに触れた。そこに沖縄というもののある本質を感じた。後に、BEGINの「島人ぬ宝」の歌が流行ったころ、「大切な物がきっとここにあるはずさ」というフレーズを聞くと、その夜のことを思い出す。

その輪にいるデニーさんを見ながら、米兵が父でありながらその面識もなく育ち、英語が苦手なのに、「うちなーぐち」(沖縄方言)は達者な彼が、いずれ未来の沖縄を支えていくのだろうと思った。そのときは、なんとはなしの予感だったが、彼は2002年に沖縄市議会議員選挙に立候補し、トップ当選した。その報を聞いてしばらくした後、私は沖縄で育てた子供4人と妻とで沖縄を去ることになったが、そのおりも、いつかデニーさんが沖縄県知事になればいい、いつかその日は来るだろう、と願った。その日はもうすぐ来るだろう。

沖縄県知事は沖縄の生活全般を知る人であってほしい
ここまで私は個人的な話をした。私は、足掛け8年、沖縄独自の親族構造に組み込まれ、そこで産んだ4人の子供の育児をしながら沖縄の漁村で暮らした。その経験から思うことは、沖縄の人たちが彼を県知事に選ぶなら、そうしたデニーさんへの親しみゆえだろう、ということだ。個人的な思いゆえだろう。あのデニーさんなら沖縄という生活の空間と歴史を知っているという信頼である。

沖縄県民がデニーさんを県知事に選ぶのは、その多くは基地問題イデオロギー的な政治問題の立ち位置からではない

別の点から、あえて嫌われる言い方をするなら、沖縄県民がデニーさんを県知事に選ぶのは、その多くは、基地問題イデオロギー的な政治問題の立ち位置からではないだろう。沖縄の長に立つ人は、沖縄の生活をお腹の底から知っている人であってほしい(余談だが「おなか」は沖縄っぽい言葉の響きがある)。それは、長堂英吉の小説『ランタナの花の咲く頃に』や大城立裕の戯曲『トートーメー万歳』、藤木勇人の一人芝居『黙認耕作地』のような沖縄の生活も知っている人ということだ。

もちろん、自公推薦の佐喜眞淳候補もそういう人なのだ、と信頼を寄せる人も少なくないだろう。すでに多くの支持を得て沖縄県宜野湾市長を二期務めた彼こそが沖縄県知事にふさわしいという結果になるかもしれない。フランス留学歴も長い彼も沖縄らしい国際性を示す人物なのかもしれない。沖縄の生活空間から離れて久しい現在の自分としては、佐喜眞候補ではだめだという理由は特にない。

デニー県政はそれでも混乱するだろう
私はデニーさんが沖縄県知事となってほしいと思うが、反面、本当に苦難の道を選ばれたものだなとも思った。8月8日、任期を全うすることなく膵がんのため67歳で亡くなった翁長雄志沖縄県知事の弔い合戦とも言えるような文脈で彼が語られる状況を知って、さらに同情を深めた。

一方に米軍基地反対の唱和があり、他方に米軍基地が必要ならなぜ本土に移転しないのかという口にしづらい疑問が県民にある

懸念も覚えた。翁長知事の死は、結局のところ後継者を選びきれなかった点でも悲劇的なものだった。翁長氏を非難したいわけではないが、沖縄県知事という要職にあったのだから、深刻な健康問題を抱えていると本人が理解した時点で後任を示唆して辞職すべきだった。だが、できなかった。つまりは、それができなかったという点に、すでに沖縄県知事の職が抱える問題が示されている。あえて率直に言えば、沖縄と本土日本を挟んだ政治なるものの矛盾だろう。一方に米軍基地反対の唱和があり、他方に米軍基地が必要ならなぜ本土に移転しないのかという口にしづらい疑問が県民にある(米国としては空軍を除いて沖縄に米軍基地を置く強い意志はない)。

翁長知事が生前、後継者を示唆できなかった背景は、今回の知事選候補選びでも露呈していた。本土与党系の自公が、経済利害的な状況を含め、7月末までには候補者選びを進めることができたのに、本土野党系と親和な政治勢力は8月下旬まで候補が絞り込めないでいた。県政与党会派や辺野古新基地建設に反対する勢力は知事選のために「調整会議」を設置したのだが、8月17日時点の候補は、謝花喜一郎・副知事(61)、赤嶺昇・県議(51)、呉屋守将・金秀グループ会長(69)の3人に絞り込まれ、玉城デニーという名前はそこになかった。この時点で、謝花氏は様子見、呉屋氏は否定、意欲的だったのは赤嶺氏のみ。当初11月に予定されていた次期知事選に向け、5月時点ですでに「オナガ雄志知事を支える政治経済懇和会」の会長に会派おきなわの赤嶺昇県議が就任し、調整会議との連携を見据えていた。

翁長知事が生前、後継者を示唆できなかった背景は、今回の知事選候補選びでも露呈していた

この流れからすれば、本土野党系(事実上の辺野古基地移転反対派)に親和的な勢力は、知事選には赤嶺候補でまとまるはずだった。が、唐突な印象で、翁長知事が残したとされる遺言テープといった話題から、急転して玉城デニー氏の名前が浮上した。

デニーさんとしても想定外の事態ではなかったかと思われるが、その後の流れを見ると、収まるところに収まったようにも見える。つまり、それがデニーさんへの沖縄県民の信頼といったものだろう。他方、デニーさんが沖縄県知事となっても、候補選択過程の紆余曲折の力学は表面化するだろう。選挙までは、政治的な文脈で辺野古新基地建設に反対する勢力が主導しているかに見えても、行政の現実となれば残念ながら混乱するだろう。

つまりは、翁長県政と似たような状態になるだろう。表面的には、玉城デニー県知事で何が変わったのかという批判も出てくるだろう。

県知事としてデニーさんを沖縄県民が選びだしたのだという意味、つまり沖縄県民の信頼の情感というものは、なかなか本土には伝わらないのではないだろうか。

デニー」沖縄知事は日本の政治の多様性にもなる
ポリタスの津田氏から本稿の依頼があったとき、彼は「翁長知事の弔い合戦という性質が色濃くなっていきている上、基地問題に焦点が当たるのは当然の成り行きかと思います。しかし、現実問題として佐喜真候補が勝とうが、玉城候補が勝とうが、普天間基地返還や辺野古移設(新基地建設)問題がすんなり解決する見込みは立っておらず、この複雑さが、本土でこの問題の理解が進まない原因の一つになっているように思います」と添えていた。

基地問題という視点は、「複雑さ」を覆うための単純化の道具にもなりえてしまう

知事選候補選択の過程を見てもその「複雑さ」は察せられる。その背景の利権の構造なども指摘できるかもしれない。他面、その「複雑さ」が沖縄における地方二紙や地銀三行といった、他地方には珍しい状態を支えているのかもしれない。沖縄の「複雑さ」は、親族構造や27年間にわたる米統治下経験を含め、琉球という異文化を日本という近代国家に統合したゆえの課題でもある。あえて言うなら、基地問題という視点は、「複雑さ」を覆うための単純化の道具にもなりえてしまう。

デニーさんが沖縄県知事になることで、本土の人もデニーさんの肉声を、以前にもまして聞く機会も増えるだろう。デニーさんを支えてきた沖縄の人の声も聞けるだろう。

米兵と沖縄県女性の子供として、玉城康裕((たまきやすひろ))と名付けられた彼は、母からは「デニス」と呼ばれ、周りからは「デニー」として慕われた。そして、「デニーさん」と呼ばれつつ知事になる。それは、多様性を飲み込んでいく沖縄の歴史の歩みそのものだ。むしろこうした多様性は本土日本の政治に示唆するところも大きいだろう。