<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後73年> 死の密林、闇夜を流浪 - 東京新聞(2018年8月14日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081402000117.html
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「私ね、若い子に話すのが怖いのよ」
じっくり話を聞こうとノートを開いた時、金子富子さん(81)がつぶやいた。
「平和な時代に、戦争の話なんて聞きたくないでしょ? 拒絶されそうな気がして…」
われわれの世代の「無関心」が怖いという金子さん。恐る恐る語るように、フィリピン・ミンダナオ島のダバオでの体験を振り返った。
当時のダバオはロープなどに使う麻栽培が盛んで、多くの日本人が住んでいた。太平洋戦争後期の一九四四(昭和十九)年、米軍のフィリピン攻略が本格化し、八歳の金子さんは両親や姉弟ら十二人とジャングルに避難した。
昼間は木の枝や麻の葉で作った小屋に身を隠し、数日すると闇夜にまぎれて移動した。食べ物は木の根っこや自宅から持ち出したかつお節など。母親は「体を壊さないように」と必ず火を通してくれた。
河原で洗濯中に米軍機に見つかった。パイロットの輪郭がはっきり分かるほど近くから銃撃され、足元に銃弾が刺さった。
ジャングルには病気や飢えで死んだ人が転がっていた。「お母さん…」。木に寄り掛かり、力なく漏らした少年兵。大量のアリがはい回る顔で眼球だけが動いていた。
「あの時は死んだ人を見てもかわいそうとは思わなかった」。日本の降伏で終わった逃避行。同じ集落から逃げ、一家全員が無事だったのは金子家ともう一家族だけだと聞いた。

     ◆

金子さんが話す隣で、同じダバオ生まれの山根寿美子さん(85)がうなずいた。二人は今、埼玉県所沢市に暮らす。知人を通じて数年前から交流を始めた。
山根さんは三人の妹と父親をダバオで失った。焼夷(しょうい)弾に肘を貫かれたり、爆弾で足の指をそがれたり。「みゆきにかずみ、それとまさみ。小さいのから死んだって聞いたわ」
ただ家族の顔は思い出せない。戦争前の三六年に家族と離れ、山口県で祖母らと暮らしていたためだ。
祖父が亡くなり、葬儀の時、祖母が「寿美子を預けて」とダバオから駆けつけた母にせがんだ。母は四歳の山根さんを残してダバオに戻った。「母はすぐ迎えに来るつもりだったと思う」
だが翌三七年に日中戦争が勃発。四一年には太平洋戦争が始まり、母は迎えに来ることができなかった。
離れ離れになって十年。戦後、生き残って帰国した母と再会しても「初対面のように感じた」。
戦争は母の命を奪わなくとも、心をえぐっていた。夫と娘たちの死を思い出すと「死んでくる」と泣いて家を飛び出した。ささいなことで声を荒らげ、時に暴力を振るう。恐ろしくて、憎かった。「死んだ子への愛が狂ったほど大きく、私への愛はそんなになかった」
九四年に八十歳で死んだ母。晩年は介護のため山根さんの元に身を寄せた。「本当に親子として時間を過ごせたのは最後だけよ」

      ◆

ジャングルで死と隣り合わせの生活を送った金子さんと、親子の絆を戦争に壊された山根さん。メモを取るノートはたちまち二人の体験と思いにあふれた。
取材からしばらくして金子さんが「言い忘れたことがある」と、当時の様子をびっしり書きこんだ手紙を送ってくれた。
「若い子に話すのが怖い」。その言葉は「若い子に伝えたい」気持ちの裏返しだと気付いた。

<ダバオ> フィリピン・ミンダナオ島南部の州。20世紀初頭、麻の栽培のため日本人が入植し、ジャングルを開墾。1936年には在留日本人は1万4000人を超えた。41年に太平洋戦争が始まり、日本が米国の植民地だったフィリピンを占領。45年3月、米軍がミンダナオ島に反攻上陸すると日本人に避難命令が出されたが、米軍の砲撃や病死、餓死などで約5000人が死亡した。

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