広島で平和の誓い 天皇陛下「信念養う」 元東宮侍従、日誌に書き残し - 東京新聞(2018年8月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018081202000120.html
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皇太子時代の天皇陛下の側近だった人物が、太平洋戦争終結前後の混乱期、陛下の教育について周囲が検討する様子を日誌に書き残していたことが分かった。本紙が入手した日誌には、陛下が原爆投下から四年後の広島で語った、平和希求の原点と言える言葉も記されている。 (小松田健一)
日誌を書いたのは、栄木(さかき)忠常さん(一九〇九〜九五年)。東京帝国大卒業後、宮内省学習院の事務官などで皇室にかかわり、終戦直前の四五年八月十日、陛下を支える東宮職の発足と同時に東宮侍従に就任し、五〇年三月まで務めた。
本紙は栄木さんの長男で学習院初等科から高等科まで陛下の学友だった栄木和男さん(84)から、終戦前後の日誌の一部の提供を受けた。日々の業務や陛下の動静、側近たちの発言などが書き残されていた。
陛下は学習院高等科一年だった四九年四月六日、広島市を訪問。日誌には「人類が再びこの惨劇を繰り返さないよう、固い信念と覚悟を養いたい」「私の責任をよく自覚して勉強と修養に努力していく」などと、地元青少年の前で述べたあいさつの要旨が書き残されている。公式の場で話すのは初めてだった。
終戦前後の様子もある。四五年八月十五日の昭和天皇の「玉音放送」は、疎開先の栃木県・奥日光で陛下と同じ部屋で聞いたといい、側近らが涙ながらに放送を聞く様子を書いた。
二十四日には、今後の陛下の住まいと教育の地に長野県・松代(現・長野市)が候補に挙がる。松代は戦中、政府中枢の移転を想定した松代大本営が建設されていた。忠常さんは「将来日本を興すべき青少年の教育場所としては健全なる田舎の剛健なる還境(原文のまま)に限る」「殿下の御教育地として適当」などと賛同意見を記した。
実際には陛下は十一月、奥日光から帰京し、四六年四月、現在の東京都小金井市に移転していた学習院中等科へ進学した。
四六年一月十七日には、四、五年後に英国と米国へ留学する構想が記された。実現しなかったが、陛下は五三年に英国女王エリザベス二世の戴冠式へ出席、その機会に欧米十四カ国を訪問し、見聞を広めた。

◆人物像知る手掛かり
<瀬畑源(はじめ)・長野県短大准教授(日本現代史)の話> 今の天皇は側近の日記などが複数残る昭和天皇と異なり、文書となった一次史料が少ない。歴史的に重要な新事実は見当たらないが、当時皇太子だった天皇の周辺がどのような思いで教育に携わったのかや、天皇の人物像を知る手掛かりとなる。混乱期に前例がない中、自分たちが何とかしなければという職務に対する重みも感じる。