太平洋戦争 徴用船「まるで特攻」 92歳の元乗組員 - 毎日新聞(2018年8月11日)

https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c
http://archive.today/2018.08.10-233630/https://mainichi.jp/articles/20180811/k00/00m/040/226000c

撃沈3度、死と隣り合わせ 仲間、いまだ海の底
太平洋戦争では、国家総動員体制の下、兵隊や武器などの輸送のために民間船が徴用され、多くの船員が命を落とした。徴用船の乗組員だった吉田香一郎さん(92)=大阪府吹田市=も、連合国側の攻撃によって乗っていた船が3度沈没し、多くの仲間を失った。「ほとんど丸腰で危険な海に出され、まるで特攻に行くようだった」と振り返る。
吉田さんは戦時中、日本郵船経理関係の仕事をしていた。しかし、戦局の悪化で船員が不足し、1944年1月に海上勤務を命じられた。当時はまだ18歳。戸惑いはあったが、「同じ年ごろで軍隊に取られている人もいるのだから、仕方がない」と受け入れた。
待っていたのは、軍人と同じように死と隣り合わせの仕事だった。海へ出るようになって約8カ月後。門司港(現北九州市)から中国の上海に兵隊を運んでいたところ、潜水艦の魚雷を2発受けて船が沈んだ。救命艇で命からがら脱出すると、すぐに別の徴用船での勤務を命じられた。出航の度に不安になったが、拒否はできなかった。
2度目の沈没は「九死に一生」の体験だった。45年2月、重油を載せてシンガポールから日本へ航行中、ベトナム沖で、魚雷攻撃を受けた。衝撃と同時に船体が傾き、甲板にいた吉田さんは海に放り出された。
板きれにしがみついて南シナ海を漂った。一緒に浮いていた仲間たちは次々に力尽きていった。「眠ったらおしまいだ」。自分に言い聞かせて何とか意識を保ち、約10時間後に日本軍の艦艇に救出された。乗組員のほぼ半数の29人が、船と一緒に海に沈んだ。
終戦の1カ月ほど前には、関門海峡に仕掛けられていた機雷に船が触れて沈没。もはや安全な海域などなくなっていた。だから、終戦を知った時には心底ホッとした。「これで死ぬこともなくなったんだな」
戦後73年がたったいまも、多くの仲間の遺骨は海底に眠ったままだ。3度も船が沈められながら、自分が生き延びられたのは奇跡に近い出来事だと改めて思う。「狂気に支配され、命が軽んじられた。あんな時代が二度とあってはいけない」【岡崎英遠】
徴用船員、軍人より高い死亡率
1941年に日米が開戦すると、食料や資源などを海上輸送する船が不足した。このため政府は、あらゆるものを国の統制下に置くため38年に制定された「国家総動員法」に基づき、民間商船や船員の大半を徴用し、兵隊や武器の輸送まで担わせた。
公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」(東京都)などによると、終戦までに約2500隻の商船が沈められ、漁船なども含めると7000隻を超える民間船が失われた。約6万人の船員が犠牲となり、そのうち3割ほどは未成年だった。死亡率は推計で43%に達し、約2割とされる陸海軍の軍人と比べても、生命の危険が大きい任務だったと言える。
顕彰会の岡本永興理事は「島国である日本は、拡大した戦線を維持するのも資源を確保するのも海上輸送が生命線だった。だが、まともな護衛も付けずに、徴用船を次々と危険な海域に送り出した結果、大きな犠牲を招いた」と指摘する。【岡崎英遠】