(余録)日々の授業が試験の点取りをめざせば… - 毎日新聞(2018年8月4日)

https://mainichi.jp/articles/20180804/ddm/001/070/105000c
http://archive.today/2018.08.04-011213/https://mainichi.jp/articles/20180804/ddm/001/070/105000c

日々の授業が試験の点取りをめざせば、生徒は「構成想像力を使用せず」「発動的の能力に乏しくなる」。古めかしい言葉が示す通り、明治の教育誌がいう試験の弊害である。
生徒の点数崇拝は「自然公愛の心を損害し、危険なる讐(しゅう)敵(てき)心を培養する」と厳しい。そして教師への影響も指摘し、「一箇の人間を養成するゆえんを忘れ、試験場一時の虚飾に備える」ようになった。試験対策優先の教育への指弾だ。
こんな批判が出たのも当時、地域内の学校同士が成績を競う比較試験などが過熱したからだ。成績優秀者や学校には賞が与えられ、点取り競争の弊害が露呈した。ほどなくこの手の試験は下火となる(天野郁夫(あまの・いくお)著「試験の社会史」)
1960年代の全国学力テストの過熱と中止をも思い出させる話である。その後、再び全員調査の全国学力テストが行われている今日だが、大阪市の吉村洋文(よしむら・ひろふみ)市長は学テの成績を教員の手当に反映させる人事評価導入を検討中という。
学テ成績が政令指定都市で最下位なのに教委に危機感がない−−とのいら立ちは分からぬでもない。だが鼻先の手当で教師に点数アップを迫る策、学校教育を学テの点取り対策へとやせ細らせはせぬか。過去の経験からしても心配だ。
やがては成績を学校予算に反映させるとの話だが、むしろ成績の低い学校にこそさまざまな施策が求められよう。この学テ成績と教員手当の連動による学力向上策、先の明治の論評子ならば何と評するか。あれこれ想像すれば怖いものがある。