公文書対策 本質に目つぶったまま - 朝日新聞(2018年7月24日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13602594.html
http://archive.today/2018.07.23-234350/https://www.asahi.com/articles/DA3S13602594.html

公文書管理法が2011年に施行されて以来、この1年余ほど、公文書の信頼性に疑問が投げかけられ、管理のあり方が問われたことはあるまい。
森友・加計問題にPKO日報の隠蔽(いんぺい)……。あるものをないとウソをつき、都合の悪いものは怪文書扱いする。揚げ句の果てに内容の改ざんに手を染めた。
法が唱える「民主主義の根幹を支える」制度の危機だと認識し、文書管理のあるべき姿を根底から見直す。それが政権がとり組むべき最大の課題のはずだった。だが、「再発防止に全力をつくす」という首相の言葉とは裏腹に、本気で向きあう気はなかったと言わざるを得ない。政府が先週まとめた対策は、問題の本質に目をつぶったまま、形を取り繕っただけだ。
目玉は、特定秘密保護法を制定した際、内閣府に設けた「独立公文書管理監」に新たな役割を加え、政府の文書管理を横断的に点検できるようにしたことだ。省庁に資料を求めたり調査させたりする権限を、首相に代わって行使するという。
だが森友・加計問題で問われたのは、その「首相」の姿勢ではなかったか。省庁や自治体にある記録が、なぜか官邸側には一切残されていない。そして、その疑問にこたえる姿勢を、官邸はついぞ見せなかった。
そんな状態を放置したままで内閣府の役人に何が期待できるか。国民の側を向いた、真に「独立」したポストとして機能するのか、甚だ疑わしい。
政権の逃げの姿勢は、国会の事実上の閉会日にこの対策を公表したことからもうかがえる。国会は閉会中審査を開き、政府の考えをただすべきだ。与野党を問わず立法府全体が愚弄(ぐろう)されたことを忘れてはならない。
一連の問題以降、「なるべく文書を残さないようにしよう」という本末転倒の考えが霞が関に広がる。公文書であるべき記録が個人メモとされ、米国では丸ごと保存される幹部職員のメールは、いまも次々と消されている。当の官僚からも「官邸での打ち合わせで、メモをとるなと叱られることが増えた」といった声が聞こえてくる。
こうした事態に今回の対策は何も打ち出せていない。期日がきたらメールを自動廃棄するシステムを停止すべきだという、与党ワーキングチームの提言も採り入れられなかった。
改ざんや廃棄はなぜ行われたのか。真相は解明されず、不信の渦中にいる人々の手でまとめられた対策である。「根幹を支える」制度は揺らいだまま、民主主義の漂流が止まらない。