(余録)極刑によって事件が終わったわけではない… - 毎日新聞(2018年7月8日)

https://mainichi.jp/articles/20180708/ddm/001/070/099000c
http://archive.today/2018.07.08-014856/https://mainichi.jp/articles/20180708/ddm/001/070/099000c

極刑によって事件が終わったわけではない。オウム真理教松本智津夫死刑囚らの死刑執行は後継教団の信者たちに動揺を与え、教祖を神格化する動きにつながりかねない。社会は事件をどう受けとめ、前へ踏み出せばいいのか。模索が続く。
「オウムをやめた私たち」(岩波書店)という本がある。教団を脱会した元信者が集まる「カナリヤの会」のメンバーが赤裸々に体験を語る。地下鉄サリン事件から5年たった2000年に出版された。
あの事件とは何だったのか。社会のこれからを考えるには、彼らの言葉に再び耳を傾けるべきだろう。オウムの魅力も過ちも知っているからだ。
大学1年の時に入信した男性がいる。サークルに入ると先輩が就職のことを話している。その先に、結婚して家庭を持って老後を迎えるという道が見えてしまったという。「オウムにひかれる人たちって、そういうコースが幸せな道なんだって鵜呑(うの)みにしていた人たちではないと思うんです」
そんな「むなしさ」を抱える若者にとって、オウムは助け舟になった。オウムもまた心のすきにつけ込んだ。では、彼らの居場所が失われていいのだろうか。西条八十(さいじょう・やそ)作詞の童謡「かなりや」には、こうある。<唄を忘れたかなりやは 後ろの山に棄(す)てましょか><いえ、いえ、それはなりませぬ>
「唄を忘れたかなりや」は、象牙の船に乗せて月夜の海に浮かべれば、忘れた唄を思い出す。迷える若者が思い出すべき唄とは何か。彼らに聞かせる唄を探さなければ。