(筆洗) - 東京新聞(2018年5月24日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018052402000134.html
https://megalodon.jp/2018-0524-0925-32/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018052402000134.html

どうしてもなくしたものが見つからない。こういう場合のおまじないに<清水の音羽の滝は尽くるとも失(う)せたるものの出ぬはずはなし>というのがある。若い方にはなじみはないか。これを三べん唱えると、あら不思議、こんなところに…というわけである。
「聖アントニオ、聖アントニオ」。欧米などでは、カトリックの聖人アントニオに失せ物発見を祈るのだという。恋愛、縁結びの聖人と聞いた覚えがあるが、失せ物や探し物の聖人でもあったか。なんでも、この聖人、大切にしていた本を何者かに盗まれたが、祈りによって無事戻った、という言い伝えがあるらしい。
<清水の…><聖アントニオ>の国民の祈りが通じたか。森友学園に国有地を破格の安値で売却した問題に絡んで、財務省森友学園側との交渉記録を提出した。野党の求めにも廃棄した、残っていないと、さんざん説明してきた文書も含まれている。で、結局は見つかった。
廃棄したという国会答弁とのつじつま合わせで、廃棄を指示していたとは、情けなさで震えてくる。
「残っていない」ではなく、政権にあだとなる不都合な記録を役所が隠し、国民をだましていたことに他ならぬ。この一件だけで政権が吹っ飛んでも不思議ではない。
さて政権は「清水の…」「聖アントニオ」と三べん唱えるか。見つかるまい。国民の信用という名の、その失せ物は。