ハンセン病理由 無人島に遺棄 「ごみ扱い」餓死寸前 - 琉球新報(2018年5月18日)

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-720889.html
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国はハンセン病を「国辱病」と宣伝し、「浄化」に取り組んできた。1907年に「ライ予防ニ関スル件」を制定。31年には「癩(らい)予防法」と改めて、患者を死ぬまで強制隔離する政策を推進した。
男性は1920年、沖縄本島で生まれた。18歳で出稼ぎのため、南洋諸島の一つ、クサイ島に単身渡った。「沖縄に残した父母を楽にさせたい」との思いを抱きながら土地を開墾し、仲間20人ほどと懸命に働いた。
41年12月に太平洋戦争が開戦すると、船にたけていた男性は現地で徴用され、見張り役として働いた。44年の正月、朝起きると腕に赤い斑点が出ていた。病院で「らい病」と診断された後、憲兵に連行された。行き着いた先は無人島だった。
「船から放り出され、それっきりだ。誰も来なかった」。込み上げる怒りをぶつける相手もいない。水を探し回り、魚を捕る日々が続いた。それだけでなく虫や草花、何でも食べた。それでも手足はやせ細り、腹だけが出た。
戦中、沖縄本島でも日本軍は感染を恐れ、「患者狩り」を実行した。衛生兵が集落を回り、患者を愛楽園へと次々に収容した。国は患者が戦火から逃げることを許さず、園で死ぬことを強制した。
44年2月〜46年9月まで園長を務めた早田皓医師は、患者に壕堀りを命じた。壕造りに従事する患者の中には、土中に堆積した貝殻で手足にけがする人もいた。病の影響で末梢神経が麻痺(まひ)していたため、受傷に気づかず悪化し、指や手足を切断するなどして失った。慢性的な栄養失調状態も続き、44年10月から46年末まで、愛楽園の入所者315人が死亡した。
一方、無人島に捨てられた男性は数カ月過ごした後、上陸した米軍に保護された。米兵の尋問にハンセン病の英名「レプラ」と一言告げた。「また一人取り残されるのか」。男性は顔を伏せたままだったが、米兵が返した言葉は「Don,t worry(心配するな)」だった。
島から沖縄に生還した男性を待っていたのは愛楽園への「隔離」だった。「入所から2週間ほどして、両親が訪れた。私を探してくれてありがたいと思う半面、らいにかかって申し訳ない思いだった」。許しを乞う男性にしがみつき、母は泣いた。
愛楽園で暮らして70年余が過ぎた。無人島で餓死寸前まで追い込まれた恐怖に、男性は今も体を震わせる。「人でも動物でもあらん。まるでごみ扱い。私はごみのように捨てられたんだよ」 (佐野真慈)