木村草太の憲法の新手(78)学問体系がない道徳教育 曖昧な概念、権利を損ねる - 沖縄タイムズ(2018年4月15日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/237708
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本年度から小学校で、来年度からは中学校で、「道徳」が「特別の教科」となる。憲法の観点から気になる点を指摘しておきたい。
道徳教育の根本的問題は、その科目を支える学問体系が存在しないことだ。国語や英語には言語学や文学など、数学には数学、理科には物理学や化学などの自然科学、社会科には政治学、法学、経済学、社会学歴史学など、それを支える体系的な学問がある。こうした教科では教えるべき内容、例えば、漢字の書き順、自然法則や歴史的事実などは、学問の基準と手続きで画定できる。 
しかしながら、「道徳」には、学問体系がない。小学校・中学校の現行道徳学習指導要領(文部科学省2015年3月告示)によると、道徳教育の目標は「よりよく生きるための基盤となる道徳性」を身に付けることとされる。しかし、「よりよく生きる」という言葉は、あまりに漠然としている。これでは、道徳教育の内容は、その時々の政治家の意向や社会の雰囲気、学習指導要領の執筆担当者の個人的な考えによって、気まぐれに決定されてしまう。
例えば、小学校の学習指導要領には第3、第4学年の内容として、「家族など生活を支えてくれている人々や現在の生活を築いてくれた高齢者に、尊敬と感謝の気持ちをもって接すること」とある。しかし、世の中には、虐待など、子どもの安全を脅かす家族は少なからずいる。「尊敬と感謝」を向けるべき「若者」がいる一方で、尊敬や感謝を向けられない「高齢者」もたくさんいる。「家族」や「高齢者」だというだけで尊敬しろというのは、無理な話だ。
さらに問題なのは、こうした内容のない言葉の羅列が、憲法が保障する人権の価値をおとしめる機能を持つことだ。確かに、道徳の学習指導要領には、差別の禁止や自由、公正といった憲法上の重要な価値を教育すべきことが書かれている。しかし、これらの価値は、「愛国心」、「思いやり」、「家族や高齢者」への尊敬といった項目と並列で表記されている。
例えば、虐待を受けている子どもは、人権の観点からするなら、しかるべき大人に助けを求め、虐待から救出されなければならない。しかし、「家族はあなたを支えています」と一方的に教え込まれれば、自分の置かれた状況に疑問を持つことに、罪悪感すら覚え、適切な保護の機会を失うだろう。
学習指導要領には、「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」との項目まである。第1、第2学年「美しいものに触れ、すがすがしい心をもつこと」、第3、第4学年「美しいものや気高いものに感動する心をもつこと」までは、何とか理解もできる。しかし、第5、第6学年「美しいものや気高いものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつこと」に至っては、もはや、憲法が禁じる宗教教育ではないか、との疑念を持たざるを得ない。
憲法は、社会の最低限の基盤だ。「愛国心」や「家族」への感謝は、あくまで憲法上の権利が実現していることを前提に、個々人がそれぞれに形成すべき価値観だ。曖昧な概念で憲法上の権利を相対化してはならない。 (首都大学東京教授、憲法学者