<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (8)「お友達政治」暴走に拍車 - 東京新聞(2018年3月9日)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201803/CK2018030902000196.html
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磯田道史さんに「明治百五十年」を聞く八回目。明治新政府が、天皇の権威を利用して一部の人間が国を動かす体制をつくった問題を掘り下げます。 (聞き手・中村陽子、清水俊郎)

薩長の政治家らが権力を独占し、内輪で進める政治が「有司専制」でしたね。こうした「お友達政治」が何をもたらしたのですか。
有司専制の反対は「公議政体」です。下からの意見をみんなで取りまとめ、官僚に行わせること。明治維新の当初の目標では、それを丁寧にやるはずだったんです。でもかなわなかった。
実は、明治の新政府は、立ち上がった当初から人気があったわけではないんですね。むしろ評判が悪かったんです。有司専制で、背中の後ろに天皇という権威を置く。虎の威を借るキツネですからね。形式的には天皇に忠義を尽くしているふりをしても、中身は統帥権(※注)をたてにした軍や官僚による拡張主義の政治でした。

−評判が悪くても「お友達政治」が続いたのは?
ある時を境に、一気に国民の信を得るのです。それは一八九五年、日清戦争の勝利です。歴史を振り返れば、日本は元寇(げんこう)の時だってあたふたしたし、豊臣秀吉朝鮮出兵でも意図を達成することはできなかった。それなのにあの大国・清に勝ったんです。
有司専制で動いたら、戦争で成功しちゃった。賠償金まで取ったことで、「この政権体制、いいじゃない」というムードが大衆に広がりました。

−この状況の変化が、その後の日本に、暗い影を落としたのですね。
日本人は、肝に銘じておくべきだと思いますよ。
有司専制は暴走を始めると止められません。みんなの意見で決める公議政体ではないからです。実際、歯止めなくどんどん進みました。周辺国を侵略し、手柄を立てると、爵位がもらえる。役所での地位も上がる。それを全国の少年少女が憧れの目で見る…。
その後は、世界最大の人口の中国と戦い、世界最大の工業力を有するアメリカ、世界最大の情報収集能力と外交力を持つイギリスとも同時に戦ったわけです。やがて世界最大の国土面積を持つソ連とも戦うことになりました。

−暴走の根本的な要因は、明治維新からのお友達政治にあった?
それはあるでしょう。十九世紀は、国民国家をつくるか、植民地にされるかの、二者択一の列強世界でした。批判する場合も、時代状況を鑑みないといけません。実際、西洋から支配されずに独立を保ったことは、輝かしい目で見られました。
けれど、アジアの国々との関係の悪化を招いたことは間違いない。強大な軍事力と衝突し、後に残ったのは、東アジアからの恨みと、二発の原爆の体験、空襲で焼き払われたまちだけでした。

−明日は、国民作家・司馬遼太郎さんの著作から、この点について考えます。

◇ことば
※ 統帥権…軍に対する指揮・命令権。大日本帝国憲法第11条で天皇の大権とされた。


日清戦争錦絵「日清両国戦争図」1894年、小林泰次郎=国会図書館デジタルコレクションより